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第54談 資料館の大洪水(前編)

これは、色々な不思議な体験をされている知人であり女優の宮坂真理さんから聞かせてもらった話の一つです。


 私と宮坂さんが出会った経緯については、第40談 「某高地のトンネル奇譚」をご参照ください。


 数年前、彼女は嫁いだ旧友に会うため、ある地方都市を訪れました。


 到着時刻が思いのほか早かったため、約束の時間までの暇潰しに、ふと思い出した某資料館に足を向けることにしたのです。


 資料館の名前は伏せますが、戦中の被災にまつわる記録を展示している場所とだけ記しておきます。


 大学時代、サークル合宿で先輩たちに連れて来てもらった以来、十数年ぶりの再訪だったとの事です。


 宮坂さんが資料館の玄関をくぐると、冷ややかで整然とした空気が肌に纏わりついてきました。


 (空調のせいなのかしら?いや、それだけではないような気がする)


 と、宮坂さんは思いました。


 資料館の一階には、かつての街並みを再現した模型と、被災当時の映像記録が流されていました。


 彼女がそれに見入っていた瞬間です。胸の奥から、何かがこみあげるような感覚が突き上げてきました。


 なぜか涙が止まらなかったそうです。


 むせび泣くような悲しみ。身内を失った時のような、取り返しのつかない痛みが、彼女の心を暴力的に打ちつけてきました。


 「自分でも驚くほどの涙だったんです。まるで“誰かの恐怖”が、そのまま自分の体に流れ込んできたような奇妙な感覚でした……」


 震える声で、宮坂さんは語ってくれました。


 二階の展示室には、焦げた弁当箱、溶けかけた眼鏡、子ども服の断片が静かに並べられていました。


 それらを眺めていると、今度は言葉で言い表せないような‶不思議な感覚〟に襲われたといいます。


 誰の記憶でもないはずなのに――。


 まるで、自分が〝あの戦争の日〟を体験していたかのような、異様な既視感。


 そして、自分が何かを、誰かを〝置いてきた〟ような罪悪感。


 その時、彼女の背後を子どものような足音が通り過ぎた……ような気がしました。


 振り向いても、誰もいないし、階段も軋んでいません。


 なのに、右耳のすぐ近くで、小さく鼻をすする音が聞こえたような気がしたそうです。


 (ここに来たのは、間違いだったかもしれない)


 そんなことを思いながら、宮坂さんはトイレに立ち寄りました。


 女子トイレのドアが閉まりかけた瞬間、二~三人の女性客とすれ違いました。中に入ると、誰の気配もありません。


 トイレの個室に入り、しばらくすると――


 ‶ジャー〟


 右隣の個室で、自動洗浄音――某メーカーの〝○姫〟の音が鳴り響いたのです。


 (あ、誰か入ってきたのかな)


 そう思った次の瞬間、


 ‶ジャー!〟


 今度は左隣から洗浄音。そしてまた右隣の一つ向こうから洗浄音。さらにその向こうから……。


 まるで音の波が押し寄せてくるように、“○姫”の音が、次々と鳴り響き始めたのです!


 ‶ジャー!ジャー!ジャァァアアアアーー!!!〟


 あまりに唐突で、あまりに規則的すぎるその連鎖は、もはや「洗浄音の大洪水」と言っても過言ではありません。


 その時の彼女は(ツアー客か何かが一斉に入ってきたんだろう)と思い、それほど深く考えませんでした。


 彼女は、個室を出て、洗面所に立ちました。


 手を洗いながら、ふと鏡を見上げる。


 鏡の奥、背後に映る個室の扉――


 全て、開いていたのです。


 〝ガラン〟と音を立てるように、誰もいない個室の列。


 人の気配は、どこにもありません。


 あの合唱のような〝○姫〟の音は、未だに鳴り続けているのに。


 彼女は手を止めると、鏡越しに再び個室を見ました。


 鏡の奥で、一番奥の個室の扉が〝スゥ〟っと閉じていくのが見えました。……誰も触っていないのに!


 だが、振り返ると、その扉は開いたままでした!


 〝まるで見えないモノの意志で音だけが残っている〟そんな錯覚すら感じる空間だったそうです。


 宮坂さんは、その場を逃げるようにしてトイレを出ました。


 資料館を出た瞬間、空気が一変していました。


 蝉の声が耳を打ち、照りつける日差しが、妙に現実的で、熱くて、急に喉の奥がカラカラに渇きました。


 まるで、さっきまでいた資料館が〝この世のものでなかった〟かのように……。


 その境界線は、館内トイレの〝あの鏡〟にあったのかもしれません。


 「トイレの中には誰も、いなかったんです。不思議な話でしょ?」


 そこまで語った宮坂さんは、少し間を置いてから神妙な表情をしながら付け加えました。


 「ひらやまさん。この話には、まだ〝続き〟があるんです。聞いてくれますか?」


 宮坂さんの問いに、私は無言で頷きました。


 ……以下、後編へ続く。

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