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第5談 親父と映画監督

 私が、その話を聞いたのは都内の小さな居酒屋だった。


 薄暗く、煙草の匂いが染みついた木の壁。


 冷えたジョッキがテーブルの上に汗をかき、隣の席では見知らぬ誰かが小さな声で笑っていた。


 私の正面に座っていたのは、とある記事の取材を通して交流の始まった映画監督の松永さん(仮名男性)。


 50代も後半に差しかかっていて、言葉に独特のリズムがある人でした。


 「なあ、ひらやま君……こんな話を信じるか?」


 そう前置きしてから、彼は、静かに語り出しました……。


 松永さんが映画監督を志したのは、大学を出たばかりの20代前半の頃。まだ、バブルの残り香が町に漂っていた時代でした。


 しかし、当時の彼の父親は、いわゆる〝昭和の頑固親父〟という方で、堅物で、無口で、息子の夢など歯牙にもかけないような人でした。


 「映画監督なんざで飯が食えるわけないだろ! 馬鹿なこと考えてねぇで、まともな職に就け!」


 息子に対する怒声の中には、煙草と焼酎の混ざったような、鼻を刺す酒臭さがありました。


 冬の寒い夜、ストーブの熱が漂う居間で、父と息子の怒鳴り合いは続きました。


 その夜、松永さんは実家を飛び出しました。 


 スーツケースの中にカメラなどの機材を詰め込み、その胸には映画監督への夢を抱えて……。


 「それからの七年間は地獄のような日々だったよ」と、松永さんは語りました。


 金は無いので生きるためにバイトに明け暮れ、撮影用の必要機材を買うのも借金でした。


 それでも、挫けずに撮影した一本の自主制作映画が小さな賞を取り、それを契機に徐々に仕事が入るようになりました。


 家を飛び出して間もない頃から、交際し支えてくれた恋人と結婚を考えた松永さんは、意を決して彼女を連れて実家を訪ねました。


 ところが、七~八年ぶりに再会した父は、


 「こんな非常識な女と結婚なんて、俺は絶対に認めん!」


 と言って、首を縦に振りませんでした。


 相変わらず、その怒声は酒と煙草の臭いを帯びていたそうです。


 父の言葉に、彼は堪えきれず拳を握りました。


 次の瞬間、乾いた音が居間に響きました。


 彼は、父を殴ってしまったのです。


 自分の拳が父の頬に当たった瞬間、その手が痺れるほどの感触があったそうです。


 息子に殴られた父は、倒れませんでした。


 ぐらつきながらも、その場に立ち尽くしてました。


 血の気が引いた顔で、頬を押さえた父は、じっと息子を見つめていた。


 その目に宿っていた感情は怒りではなく、ほんの一瞬だけ「驚き」と「哀しみ」に染まっていたと、彼は話しました。


 「⋯⋯殴るほど、俺が憎いのか」


 父の声は、小さく掠れていました。


 いつものような怒鳴り声ではありませんでした。


 むしろ、長年の〝何か〟が剥がれ落ちたような、乾いた声でした。


 そんな父に対して〝何か〟を言いたい気持ちはあったものの言葉に出来ない松永さんは、そのまま恋人を連れて家を飛び出しました。


 それきり、二十年近く家族とは絶縁となりました。


 そんなある日、妹から父が危篤であることを告げる電話がかかってきました。


 「兄さん!急いで来て。もう時間がないの!」


 電話口の向こうで嗚咽する妹の声が、異様に遠く、木霊して聞こえました。

 

 電話を切った松永さんは、迷わず電車に飛び乗りました。

 

 列車の振動が心臓にまで響くようだった、と彼は言いました。

 

 実家に着いたのは、深夜でした。


 古びた畳の匂い、灯油の混じったストーブの匂い。何も変わっていないようで、空気だけがひどく冷たく変わってしまったと、彼は感じました。


 時すでに遅く、父は布団の中で冷たくなっていました……。


 葬儀を終えた日の夜。 疲れ切った松永さんは、実家の自室で眠りに落ちました。


 そこで、彼は夢を見ました。 場所は、どこかの居酒屋。


 古びた木のカウンター、白熱灯の赤らんだ灯り、焼き鳥の煙。 鼻に刺さる焼きたての匂いと、醤油の香ばしい焦げ臭さが、やたらとリアルだったそうです。


 自分の正面の席には、父がいました。 背中を丸め、焼酎を片手に小皿の枝豆をつまんでいました。


 「⋯⋯この演出、まだ甘いな。ここの展開は、こうした方が良かったんじゃないか?」


 まるで映画評論家のように、息子の作品にダメ出しをする父。

 

 それに対し、彼は何も言い返せませんでした。


 悔しくて、情けなくて、言葉が出なかったのです。


 一通り話し終えると、父が笑いました。


 酔いが回ったのか、彼は松永さんの肩をバンバンと叩いてきたそうです。夢にも関わらず〝それ〟は重く、骨に響くような衝撃を感じたそうです。


 「でもな!俺は、お前の映画のファンだからな!」


 その言葉を聞いた瞬間、松永さんは泣きました。 声も出せず、しゃくりあげながら、幼子のように父の胸に顔を埋めて泣き続けたのです……。


 気がつくと、朝になっていました。


 朝食の席で、彼は母と妹に夢の話をしました。


 すると、母が涙をこらえながら言いました。


 「あの人ね、あんたの映画、全部見てたわよ。いつも夜中に1人だけで何度も、何度も、繰り返し……。本当に素直な人じゃなかったのよ」


 母の話を聞いた瞬間、松永さんの目から大粒の涙がこぼれ落ちました。


 嗚咽が止まらず、彼は洗面所に駆け込み、シャワーを浴びました。


 「お袋たちに泣き顔見られるのが、何か嫌でさ。シャワーで涙を洗い流したかったんだよ」


 私にそう言うと、松永さんは照れ隠しなのかジョッキのビールを飲み干してから話を続けてくれました。


 ⋯⋯浴室から出た彼は、鏡の中の自分を見て、一瞬、息が止まりました。


 両肩に、くっきりと青アザが浮かんでいたのです!


 夜まで確かになかったそれは、夢で父に〝叩かれた〟場所と、寸分違わぬ位置でした。


 そこに触れてみると〝ジン〟と鈍く痛みました。 それは夢の記憶よりも、生々しく、何より現実のモノでした。


 「あれは、夢じゃなかったのか?いや、でも確かに夢だったはずだよな?」


 松永さんは、そう思いながら肩を触りました。


 青アザが浮かんでる箇所からは、父の温もりのような熱が、ジワリと広がるを感じたそうです。


 話を終えた彼は、お代わりのビールを飲みながら笑いました。


 「天国で、あの頑固親父と、映画の話……またしてみてぇなって思ってるよ」


 その笑顔の裏には、確かな未練と、そして父親への愛情があるのを私は感じました。


 私はグラスを持ち上げ、こう言いました。


 「きっと、今でも観てますよ。松永監督の作品を」


 その瞬間、店の奥で〝カラン〟と誰もいないカウンターからコップが落ちる音がしました。


 私たちは顔を見合わせたが、お互い何も言いませんでした。


 その直後、私の背後を〝何か〟が通り過ぎた気がしたのを今も忘れてません。

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