第44談 詐欺を斬った戦国の姫
人には「強運」という言葉が、時に羨望を、時に不気味さをまとって響くことがあります。
私の大学時代の同級生、仮にT君と呼びましょう。彼は、まさにその「強運」に恵まれ続けていた男でした。
彼は遊びやアルバイトに夢中で、ほとんど出席していない講義の試験で、一夜漬けした範囲がそのまま出題され、あっさり単位を取ってしまう。
軽い気持ちで受けた大手企業の面接でも、場の空気に助けられるように内定を勝ち取ってしまう。
私は正直、羨ましい気持ちと同時に、どこか説明のつかない違和感を覚えていました。
――彼の背後には、いつも〝見えない何か〟がついているような気がしたのです。
29歳の時、彼は合コンで偶然隣に座った女性から熱烈に迫られ、そのまま結婚しました。本人は「俺ってラッキーなんだよ」と笑っていましたが、私には彼の人生が、あまりに滑らかに良い方向ばかりに、転がっていくことが奇妙に思えてなりませんでした。
その感覚は、彼が中学時代に経験したという一件を聞いたときに、さらに強まりました。夏合宿で食中毒が発生し、先輩や同級生の数人が入院した。けれどT君だけは、直前に風邪を引いて参加を見送っていた――。
まるで〝見えない手〟に守られていたような偶然。そう考えると、背筋の奥で小さな寒気が走りました。
社会人になった彼は、地方の歓楽街での接待の席で、あるバーに立ち寄ります。
その店は古びた木造りで、入口には湿ったような甘いアルコールと線香のような匂いが漂っていたそうです。
そこで出会ったマスターが、T君を見るなりこう言ったといいます。
「君には、非常に強い守護霊がついているのが見えるよ」
T君は冗談めかして「どんな守護霊ですか?」と尋ねました。
マスターはグラスを拭く手を止め、じっと彼の背後を見つめると――
「……とても美しい女性だね。着ている衣装から察するに、戦国時代のお姫様かな」
そう答えたといいます。
その時、彼は確かに、誰もいないはずの背後から衣擦れのような音を耳にしたそうです。もちろん振り返っても、誰もいませんでした。
数年後、彼は脱サラして玩具店を始めました。店舗を立ち上げる際、市場価格よりずっと安く商品を卸すという業者が近づいてきます。誰が見ても「好条件」――しかし、その夜、彼は奇妙な夢を見ました。
――白い着物を纏った女性が、夢の中で彼の店先に立っていました。
目も眩むような白さではなく、月光を吸い込んだような鈍い白。女は無言のまま、じっと複数の男たちを睨みつけていたそうです。
次の瞬間、袖の奥からスッと白い指が伸び、払いのけるように空を薙いだ。
その仕草と同時に、男たちは顔を歪めて後ずさり、闇に吸い込まれるように掻き消えました。
不思議なことに、風ひとつ吹いていないはずなのに、女の着物の裾だけがザワザワと逆巻いていました。
布擦れの音が、静まり返った夜の境内に響く鈴虫の声をかき消すほど、やけに生々しく耳に残っていたのです。
目を覚ました瞬間、畳に染みついた青臭い匂いと、湿った夜気が部屋に漂っていました。窓は閉め切っているのに、確かに風が頬を撫でていったのです。
「夢じゃなかったのか?」
寝汗で湿った襟足を撫でながら、彼はしばらく動けずにいたという。
嫌な予感が拭えず、翌日、彼は「風邪を引いた」と嘘をついて業者との契約を延期しました。
その選択が命運を分けることになります――。
それから一週間後。
夜のニュース番組で、見覚えのある業者の顔が映し出された。テロップには「詐欺常習犯、逮捕」と赤い文字。
その瞬間、胸の奥が冷たい手で鷲掴みにされたような感覚に襲われた。
画面の光を見つめる彼の網膜に、あの夢の女の横顔がクッキリと浮かび上がる。
伏せられた長い睫毛、血を引いたように紅い唇――。
サラリーマン時代、バーのマスターが口にした「戦国のお姫様」という言葉が、耳の奥でゆっくりと反響した。
彼は私に「単なる偶然だよ、アハハ!」と笑って話していました。
しかし私の耳には、その笑い声が少し乾いて響きました。
彼の背後には、確かに何かがいるのではないか?――そう思わずにはいられません。
今も彼は幸運をまとい、平穏な日々を送っている。
けれど、ふとした時に彼の周囲の空気がヒンヤリするのです。まるで、誰かが背後でこちらを見つめているように……。
もしも私とT君がコンビを組んで創作を始めれば、きっと大ヒットするのかもしれません。
けれど……その時、本当に印税を手にするのは私たち二人だけなのでしょうか?
もしかしたら、もう一人……〝着物姿の女性〟が、彼の側で静かに微笑んで受け取るのかもしれません。




