第43談 チャイムの鳴らない来訪者
これは、私の知人で女優の宮坂真理(芸名)さんから取材した話です。
私が宮坂さんと出会った経緯については、「第40談 某高地のトンネル奇譚」をご参照ください。
――ただし、今から語る内容は、誰にでも起こりうる〝日常〟の延長線に潜んでいた出来事でした。
十数年前、彼女がまだ二十代前半で、某県立病院に医療事務として勤め始めたばかりの頃。
その病院は予約患者専門で、待合室が混み合うことは少なく、そこに座っている人々も、誰が患者で誰が付き添いなのか、新人の宮坂さんにもすぐに分かるほどでした。
当時、病院は増築工事の真っ最中でした。
受付の横には、完成後の病院を模した大型模型がガラスケースに収められており、白い病棟、緑に彩られた中庭、そして象徴となる〝塔〟までもが精巧に再現されていたそうです。
ある日のこと。
ふとした瞬間、宮坂さんはその模型の前に、誰かが立っているのに気づきました。
上下ベージュ色の作業着姿。背を向けたその男性は、じっと模型に目を落とし、微動だにしません。
(付き添いのご家族かしら?)
最初は、そう思いました。
ただ、待合室に座る患者や家族の誰も、その男性に視線を向けていないのが、どこか奇妙でもあったといいます。
彼女は業務に追われ、しばし男性のことを忘れていました。
書類を整理し、電話応対を終え、ふと顔を上げて待合室を見ると――そこにはもう誰の姿もありませんでした。
(おかしい)と、首を傾げました。
病院の玄関は出入りのたびに〝チャイム音〟が鳴る仕組みになっています。
最後に、あの男性を見たときから今に至るまで、一度たりともチャイムが鳴った記憶はないのです。
胸の奥に冷たい違和感が残り、宮坂さんは隣の先輩に尋ねました。
「さっき、模型を見ていた作業着の男性、いませんでしたか?」
しかし先輩は怪訝そうに首を傾げ、逆に問い返してきます。
「男性?誰のこと?」
作業着の色や背格好、細かい特徴まで説明しても、先輩はただ黙り込むばかりでした。
やがて――まるで言葉を選ぶように、低い声で囁いたのです。
「宮坂さん。あなた、もしかして見える人なの?」
ゾワリと背中を冷気が撫でる。
その瞬間、さっきまで意識しなかった待合室の空気が、急に湿っぽく重たく感じられました。
沈黙のあと、先輩は意を決したように打ち明けました。
「多分それは、この病院の増築工事を担当してた〝現場監督〟さんじゃないかしら?」
「‶担当してた〟ということは……」
「残念なことに、二〜三ヶ月前に病気で亡くなられたのよ」
その瞬間、宮坂さんの脳裏に、模型を凝視していた作業着姿が鮮明に蘇りました。
あの男性が――この世にはもういない人間だとしたら?
思わず鳥肌が立ち、手元の書類が僅かに震えたといいます。
病院には〝シンボルの塔〟と呼ばれる建物が併設されています。
普段は立入禁止のその塔の窓に、亡くなった現場監督の姿が幾度となく目撃されている、と先輩は続けました。
「夕暮れになると、塔の上から工事現場を見下ろす影が映るのよ。雨の日なんかは、びしょ濡れの作業着姿で……。患者さんの中には、何度も見たって人もいるわ」
「どうして、そんな?」
「きっと心配だったのね。自分が果たせなかった仕事が、ちゃんと完成するのか……」
その時の先輩は、どこか寂しげな表情を浮かべていたそうです。
思い返せば――模型を見つめていた作業着の男の顔は、不思議とどうしても思い出せない。
服装も背格好も鮮明なのに、顔だけが霞んだように記憶から抜け落ちている。
まるで、最初から見せてもらえなかったかのように……。
そして数か月後、増築工事は無事に終わり、病院は新しい姿を完成させました。
その日、宮坂さんはそっと模型の前に立ち、心のなかでつぶやいたといいます。
(現場監督さん……病院はちゃんと出来ました。どうか、もう安心してください)
けれども――。
それから数年経った今でも、あの塔の窓に〝影〟を見た、という噂は途絶えることがないそうです。
私が宮坂真理さんから、この体験談を取材した時、正直なところ最初は「病院という舞台が生んだ思い込みや錯覚ではないか」と思っていました。
しかし、彼女が語る「チャイムが鳴らなかった不自然さ」や「顔だけが思い出せない」という証言は、作り話では出てこない種類の〝生々しい違和感〟を帯びていました。
また、亡くなった現場監督が〝模型を見つめていた〟という描写は、単なる怪異以上に強い印象を残しました。
それは恐怖というよりも「仕事を最後までやり遂げたかった人間の念」そのものであり、聞いている私まで胸が締め付けられるような感覚を覚えたのです。
病院という、生と死が交錯する場所だからこそ、このような存在は今も塔の窓から工事現場を見守り続けているのかもしれません。
そして何より――この話を聞いた日から、私自身も〝病院の模型〟や〝塔の窓〟といった光景を無意識に目で追ってしまうようになりました。




