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第42談 母の血で染まった居間

 これは、私が知人の紹介で取材させていただいた鈴本美香子さん(仮名50代)が、いまから四十年以上も前、まだ幼い少女だった頃に体験した、恐ろしくも悲しい出来事です。


 小学校に入ったばかりの美香子さんの家は、ごく普通の木造住宅でした。


 夏になれば縁側に蚊取り線香を焚き、冬には石油ストーブのにおいが廊下に広がる……そんな、どこにでもある家庭の風景。


 けれど、その家には、幼い彼女にとって説明できない〝ひび割れ〟のような違和感がいつも漂っていました。


 玄関を開けた時に漂う、酒と汗の混じった匂い。


 夜になると、障子の向こうから聞こえる父親の怒鳴り声と母親の泣き声、時折「バンッ!」と壁に何かが叩きつけられる音。


 それらは、子供ながらに「家」というものが決して安全ではないと告げていたのです。


 ……ここまで読んだ方は察しが付いたと思いますが、彼女が物心ついた頃から、両親の仲は非常に悪かったそうです。


 なぜなら、彼女の父親はロクに家に金も入れず、博打などに熱中して稼ぎの大半を注ぎ込むという、典型的なクズ人間だったからとのことでした。


 当然、母親も事あるごとに旦那に文句を言っていたそうですが、その度に殴る蹴るなどの暴力を振るわれるので、その内に何も言えなくなってしまったそうです。


 ある日の夕暮れ。


 ランドセルを下ろした瞬間、居間からいつも以上に荒々しい声が響いてきました。


 「アンタ!また金を使い込んだんだろう!」


 母の声は震えていましたが、今夜は退かない強さを帯びていました。


 続く父の怒号。酒に焼けた喉のせいか、血の滲むような赤い顔が障子越しに想像できるほどでした。


 美香子さんは居間の隅に小さく座り込み、畳の目を見つめていました。


 耳を塞ぎたくても、二人の言葉は勝手に入り込んできます。


 「美香子の学費のために貯めていたお金まで、ギャンブルに使い込んで!!」


 母の悲痛な叫びに、彼女の小さな胸はズキリと痛みました。


 やがて、乾いた音と共に母が倒れ、鼻血の匂いが部屋に広がりました。


 しかし母は涙を流しながらも反撃し、父の股間を蹴り上げたのです。


 男の急所を蹴られた彼は、獣のような呻き声を上げてうずくまりましたが、痛みが引いて立ち上がった瞬間、彼の顔は凄まじい怒りに満ちていました。


「てめえ!ブッ殺してやる!」


 父が持ち出したのは台所の包丁。


 蛍光灯の明かりを反射して、冷たい銀色がギラリと光りました。


 次に響いたのは、肉を裂く湿った音。


 畳に飛び散った母の大量の血液が、じわりと鉄臭さを放ち始めました。


 母の口から漏れるかすれ声と、血の泡が弾ける音。


 美香子さんは恐怖のあまり声も出ず、ただその場に貼り付けられたように動けませんでした。


 心臓の鼓動だけが、自分の耳の奥でガンガンと鳴り響きます。


 やがて母は仰向けに倒れ、白目を剥いたまま動かなくなりました。


 その時でした。


 父が包丁を握りしめたまま、ニヤリと笑って娘に近づいてきました。


 妻を殺害してしまったショックで気が触れてしまったのか、明らかに目つきが異常であることが美香子さんにも理解出来たそうです。


 「うへへへ!美香子、お前も一緒に天国行こうか?」


 畳を踏む足音が近づくたび、彼女の視界は涙で滲みました。


 その瞬間――異変が起きたのです。


 父の背後。


 倒れていたはずの母が、立っていました。


 母の顔は血に濡れ、長い髪が頬に貼りついていました。


 その表情は、愛情とも憎悪とも判別できない、鬼のような歪み。


 母は無言のまま父の首に腕を回し〝ギュウゥゥゥ〟と絞め上げたのです。


 父は「お、お前!?な、何で……?」と弱々しく言葉を漏らしましたが、次第に声は掠れ、目が見開かれたまま力を失っていきました。


 その時の美香子さんの記憶には、一つだけ引っかかるものがありました。


 母が立ち上がった直後、美香子さんが、ふと部屋の隅の古い鏡を見た瞬間、そこに映っていたのは「母」ではありませんでした。なぜか〝もうひとりの自分自身〟のように見えたのです。


 そこに映っていたのは自分のはずなのに――その顔は、どこか別人めいて見えたのです。


 それは、恐怖と混乱が見せた幻だったのか?それとも現実だったのか?


 美香子さんには、その答えは今だに分からないそうです。


 「ママが死んじゃうよー!誰か助けて!」と、叫んで家を飛び出した所、異変を感じた近所の人が駆けつけて警察に通報してくれました。


 警官たちが現場に踏み込むと、両親は絶命していたそうです。


 母親の死因は刺し傷による失血死、父親の方は首を絞められたことによる窒息死でした。


 彼女は、警官に死んだと思っていた母親が立ち上がって、父親の首を絞めた事も話しましたが信じてもらえず、


 「お母さんが首を絞めたから、お父さんは包丁で刺したんじゃないかい?」と、言われたそうです。


 後に大学生になった美香子さんは、両親亡き後、育ててくれた親戚が〝ある事〟を打ち明けてくれました。


 当時の医者の見立てでは、「出血量や傷の深さから判断すると、刺された後の母親が立ち上がって父親の首を絞めることは、常識的に考えて不可能なはず」という話でした。


 しかし、彼女の脳裏には、確かに母が父の首を締め上げる姿が焼きついています。


 それは、母の愛情が起こした奇跡だったのか?


 それとも、長年虐げられ続けた女の怨念が放った最後の力だったのか?


 今も美香子さんは、あの夜の鏡の中の〝もうひとりの自分〟の顔だけが忘れられないと語ってくれました。


 この体験談を聞いている間、私は全身の震えが止まりませんでした。


 もし本当に絶命したと思われた母親が立ち上がったのだとすれば、それは愛情と執念が極限まで高まった末の奇跡かもしれません。


 愛と怨念は、時に同じ顔を持つのかもしれません。


 この話を聞いて以来、私は夜に鏡を見るのが怖くなりました……。

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