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第40談 某高地のトンネル奇譚

 これは女優・宮坂真理(芸名)さんが、小学生の頃に体験した話です。


 私が彼女と出会ったのは2016年、『地下アイドル☆ミコりんのマニアック事件簿2』というミステリー演劇で脚本を担当したとき、出演してくださったのがきっかけでした。


 ご本人の了承を得て、芸名で紹介いたします。


 夏休みの始まり、まだ空が群青色に沈んでいる時間に、家族や親戚を乗せた車は観光地として名高い〇〇高地へ向けて走り出しました。


 助手席に座っていた幼い彼女は、胸を弾ませていました。旅行の楽しみと眠気とが入り混じり、体は重いのに、心は浮き立って仕方がありません。


 窓を少し開けると、湿った夏草の匂いが夜気に溶けて流れ込みます。タイヤがアスファルトを噛む音が、やけに響いて聞こえました。


 ふと、学校で囁かれていたある噂が頭をよぎります。


 ――「九番目のトンネルを朝一番で通ると、幽霊に出会う」。


 その奇妙な言葉を思い出した時、彼女は無意識に、数を数え始めていました。


 一つ、二つ……と。


 トンネルに入る度にヘッドライトが壁を照らし、湿気が押し寄せ、車内には芳香剤のキツイ匂いが漂います。


 トンネルを抜ける度に朝の空気が流れ込み、蝉の鳴き声が遠くに広がります。


 「次で九つ目だ」――期待と不安が胸を満たしていきます。


 やがて九番目のトンネル。


 出口の光が差し込む瞬間、彼女は思わず身を乗り出しました。


 ……しかし何も起こりません。


 ただヘッドライトの白が闇を切り裂き、外の靄が広がるばかり。


 (なんだ、なにも出ないじゃん)


 安堵とも落胆ともつかない気持ちを抱えたまま、車は十番目のトンネルへ吸い込まれていきました。


 薄暗い内部。壁に水滴が流れ落ちる音が、窓越しに「ぴちゃ……ぴちゃ……」と耳に届きます。


 前方に出口の明かりが見え始めた、その時です。


 「……あれ?」


 彼女は目を凝らしました。


 出口の手前、逆光の中に〝人影〟が立っていたのです。



 両腕を大きく振り上げ、こちらに向かって何かを訴えるような仕草。


 声は聞こえません。ただ「止まれ」と叫んでいるように見えました。


 右手には棒のようなものを握っている――けれど眩しい光に遮られ、顔も服装も判別できません。


 「お父さん、あそこに人がいる!」


 助手席から声を上げても、ハンドルを握る父は反応しません。


 代わりに後部座席から母の呑気な声が返ってきました。


 「真理、バナナ食べる?」


 気がそがれ、彼女は母に「いらない」と答えました。


 その僅かな間に、前方を再び見た時――人影は消えていました。


 「さっきの人は?」


 「誰もいないよ」


 「いたよ!出口のところで……」


 「お父さんは見てない。真理の見間違いだろ」


 会話の直後、車は出口を抜けました。


 左右には切り立った崖。道は一本道。


 人が身を隠せる場所など、どこにもありません。


 なのに確かに彼女は見たのです。光を背負い、こちらに向かって必死に腕を振る男の姿を。


 耳の奥に、まだ「止まれ」と叫ぶ声が残響のように残っていました。


 夏休み明け、学校でこの体験を話したところ、友人が口をひらきました。


 「知ってる?トンネル工事の時に作業員が喧嘩して、一人殺されちゃったんだって。遺体は壁に埋められて、今もそこに……」


 その瞬間、彼女はあの日の人影が右手に握っていた〝棒〟を思い出しました。


 ――あれは喧嘩に使われた凶器だったのか?


 けれど、記憶はどうしても一つの矛盾に行き当たります。


 (でも……あの人、足があったよね。幽霊って、足なんてあるのかな?)


 答えの出ない疑問だけが、今も宮坂さんの胸に残っているのです。


 彼女が語ってくださった体験談で、印象に残ったのは『幽霊のはずなのに足がある』という証言です。


 それは、彼女の幼い記憶の混乱かもしれません。あるいは、霊というものが必ずしも「常識通りの姿」で現れるとは限らない、という証左なのかもしれません。


 事実として言えるのは、宮坂さんが見た人影は、彼女に「強烈な違和感」と「説明のつかない記憶」を残したということです。


もしかすると、その曖昧さこそが怪談の本質であり、真実に最も近い部分なのかもしれません。

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