第39談 在宅勤務のモニター画面越しに
皆様も記憶に新しいことと思いますが、新型コロナウイルスが猛威を振るい、私たちの暮らしが大きく変わったコロナ禍の時代。
外出は制限され、在宅勤務が一気に広まりました。マスクの下で交わす短い会話や、パソコン越しの人とのやり取りが、日常の当たり前になっていったのです。
あの閉ざされた時代の空気を、未だに胸の奥にひきずっている方も少なくないのではないでしょうか?
今回ご紹介するのは、当時、大手企業の営業部に勤めていた若本雄二さん(仮名50代)が体験された出来事です。
彼にとっては、つい昨日のことのように忘れられない記憶だといいます。
若本さんが新たに担当することになった取引先の窓口は、末松桂子さん(仮名・年齢非公開)という女性でした。
業務のやり取りはすべてリモート会議で行われ、互いの自宅を背景に、画面越しで顔を合わせるのが日常になっていきました。
最初は必要最低限のやり取りだけでしたが、数を重ねるにつれ、季節の話やニュース、ちょっとした世間話も交わすようになったそうです。
そうして空気が少し柔らかくなってきた頃、若本さんは画面の奥に〝違和感〟を覚えるようになりました。
ある日の会議中。ふと、彼女の背後を人影が横切ったのです。
それは髪の白い八十代くらいの年配の女性で、何かに耐えるような表情を浮かべていました。
彼は最初(ご家族が、たまたま部屋を横切ったのだろう)と思いました。
しかし、末松さん本人は気づいた様子もなく、背後へ視線を逸らすこともありませんでした。
それからも何度か、同じようなことが続きました。
会議の最中、彼女の背後の応接室を通り過ぎる老婆の影。
その度に、若本さんの耳にはカーテンが微かに揺れる音が聞こえ、鼻先には樟脳のような匂いがフッと漂う気がしました。
古い箪笥を開けたときに感じる、あの独特の匂いです。
けれど、若本さんの部屋に樟脳を使うような衣装箪笥はありません。
五感のうち、どこかが一瞬だけ異質な空気に引きずり込まれる。そんな感覚だったといいます。
しかも老婆の表情は決まって、泣き出しそうに歪んでおりました。
そして視線が合うたびに、彼の胸の奥には、ひどく切ないものが流れ込んでくるように感じられました。
彼女の瞳に宿るのは怒りでも敵意でもなく、押し殺した涙のような哀しみでした。
まるで「何かを伝えたい」と懇願しているかのように見えたのです。
若本さんは、次第に(いつ老婆が出てくるか)が気になって仕方なくなりました。
会議の内容よりも、画面の奥にある〝別の気配〟ばかりを追うようになったのです。
やがて、ひとつの奇妙な法則に気づきます。
――老婆を目撃した日と、「緊急事態宣言」や「地域で感染者急増」のニュースが報じられた日が重なっているのです。
これは偶然だろうか?
しかし気づいてしまった瞬間から、もう単なる思い過ごしとは思えなくなっていました。
ある日の会議の終わり。勇気を振り絞り、若本さんは口を開きました。
「あの、失礼ですが、時々、背後を通られるご婦人は末松さんのお祖母様ですか?」
その瞬間、彼女の顔に浮かんだのは、困惑と――僅かな恐怖でした。
「どういう意味ですか?」と問い返され、若本さんはこれまでの経緯を細かく説明しました。
画面越しに何度も老婆を見たこと、泣きそうな表情だったこと、そして感染者数の増加と不思議に符合していたことを。
しばらくの沈黙のあと、末松さんは画面の向こうで泣き崩れました。
そして震える声で語り出したのです。
――半年前まで、祖母と同居していたこと。
――その祖母が新型コロナに感染し、看取ることもできず、あっという間に亡くなってしまったこと。
「お祖母様は、お孫さんの貴女が健康であることを最後まで心配していましたよ」
看護師からの言葉だけが、彼女に残された最期の記憶だったといいます。
「お婆ちゃん……ありがとう!でも、もう大丈夫だから……」
そう呟く末松さんの頬を涙が伝い落ちるのを、若本さんはモニター越しに見守ることしかできませんでした。
不思議なことに、それ以来、会議の画面に老婆の姿が現れることはなくなりました。
コロナ禍が落ち着き、日常が少しずつ戻り始めた頃、彼女の祖母もまた安心して旅立ったのかもしれません。
このお話を伺いながら、私は胸の奥がジンワリと温かくなるのを感じました。
確かに、画面に映っていた老婆は〝霊〟だったのかもしれません。
けれど、それ以上に強く伝わってきたのは、新型コロナで亡くなったお婆様が、死してなお孫の末松さんを案じる愛情の深さでした。
あの時代、私たちは孤独と不安の中にいました。しかし、目に見えない絆が人を支えることもあったのだと思います。
この出来事もまた、その一つの証なのかもしれません。




