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第37談 置いてかないで……

 今回は、福祉関係で働く知人の紹介で高山瑞恵さん(仮名40代)から直接伺ったお話です。


 あの日、私と知人と高山さんの三人は、某駅前のカラオケボックスに腰を下ろしていました。


 「あまり人に聞かれたくない」という高山さんの要望で、そこで取材を行いました。


 ドリンクバーのカップを両手で包むように持ちながら、高山さんはしばらく黙り込み、やがて意を決したように小さな声で切り出しました。


 「……あの部屋のことを、まだ話すべきじゃない気もするんです。でも、誰かに聞いてほしくて」


 彼女の顔には、数年経った今も消えない疲労と恐怖の影が残っていました。


 高山さんが働いていた老人介護施設には、清美さん(仮名)という八十代半ばの女性が入所していたそうです。


 認知症が進み、家族の顔も分からず、生活全般の介助が必要な状態でした。


 家族の見舞いは少なく、息子さん夫婦が来ても数分で帰ってしまい、娘さんに至っては「もう母は母じゃない。ただの抜け殻」と口にして冷たく笑ったこともあったそうです。


 やがて清美さんは静かに息を引き取りました。老衰でしたが、看取りに家族は間に合いませんでした。翌朝、葬儀社の車に布団ごと運び出され、施設から姿を消したのです。


 しかし、その直後から、不可解な現象が起き始めました。


 夜勤の巡回で、清美さんの部屋の前を通った職員が、中から「見捨てないで、見捨てないで……」と女性の声を聞いたそうです。それは間違いなく彼女の声でした。


 けれど、部屋は空で、布団も片付けられ、点灯したばかりの蛍光灯が青白い光を落としているだけでした。部屋の隅には、うずくまるような影が映っていましたが、一瞬のうちに掻き消えてしまったそうです。


 さらに、電源を切ってあるはずのナースコールが、その部屋からだけ点滅することがありました。夜勤者の間では「清美さんが呼んでいる」と囁かれ、不気味な沈黙が広がりました。


 その後。数人の職員が、清美さんの部屋付近の廊下で「白い影」を目撃しました。


 白い入院着のような服をまとい、背中を大きく折り曲げ、骨ばった両手を胸の前で擦り合わせている老婆の姿でした。


 擦れるたびに、衣擦れではない――乾いた紙を裂くような異様な音が、廊下に微かに響いていたといいます。


 顔は濃い靄に覆われていて輪郭が判然とせず、ただ口元だけが闇の中に浮かんでいました。


 唇は痩せ細り、ひび割れた皮膚からは血の気のない歯がところどころ覗いていた。


 まるで〝顔の中で唇だけが生きている〟かのように、口元だけが絶え間なく蠢いていたそうです。


 「みんな、置いていくな……」


 その老婆の響きは〝声〟というより、廊下の空気が軋んで擦れるような気配でした。


 まるで肺を通らずに、直接こちらの皮膚や骨の内側に染み込んでくる。耳で聞くのではなく、背筋や腕の産毛が逆立ち、それ自体が“声”を受け取っているような感覚だったそうです。


 やがて、奇妙な事は清美さんの家族にも起きました。


 息子さんが交通事故で大怪我を負い、孫娘が高熱で入院。さらに娘さんが勤務先で倒れ、救急搬送されました。


 どうして、そんな内情を高山さんが知ったかといえば――。  


 実は清美さんの家族がしばしば施設に電話をかけてきて、「母は、亡くなる前に私たちに何か恨み言などは言ってませんでしたか?」と尋ねてきたからです。  


 事故や病気の連鎖に、家族自身が不気味さを感じていたのでしょう。電話口で震えた声で「母が怒っているのでは」と高山さんに漏らしていたそうです。


 そこまで話すと彼女は声を落とし、まるで誰かに聞かれてはまずいことを告白するかのように語りました。


 「実は、清美さんの部屋では、昔から変なことが続いていたんです」


 十数年前、その部屋にいた男性の入所者が、ある夜一人で亡くなったそうです。


 発見されたのは朝の巡回時。布団の上で目を見開いたまま苦悶の表情を浮かべて息絶えていたそうですが、医師は「老衰でしょう」と片付けたといいます。


 しかし、その夜勤に入っていた職員は「午前四時頃にナースコールが点灯していた」と証言しました。部屋を覗いたときには静かで、呼吸も安定していたのに、早朝にはもう冷たくなっていたのです。


 その更に前、同じ部屋に入っていた老女が夜中に窒息死しました。喉に痰を詰まらせた事故とされましたが、不思議なことにその夜の廊下で、別の職員が「女の笑い声を聞いた」と話していたそうです。


 誰もいないはずなのに、低く湿った笑い声が響いていた……と。


 「つまり、代替わりのたびに〝孤独に亡くなる人〟が続いていたんです。偶然と言えばそれまでですが……あまりに続くものだから、職員の間では〝あの部屋は何かが呼んでいる〟って噂になっていました」


 夜勤の巡回では、件の部屋の前を通る時だけ、足早に歩く者もいたそうです。


 「職員の皆が恐れる部屋なのに、空きが出ると必ずそこに新しい入所者があてがわれて、そして……また孤独に亡くなるんです」


 施設長は「たまたまそういう巡り合わせだ」と笑っていたそうですが、笑いながらも視線を逸らしていたと、高山さんは付け加えました。


 「今も、その部屋だけは空室のままです。備品も何も置かれていません。……でも夜になると、誰もいないはずの部屋の中から声が聞こえるって噂があるんです」


 高山さん自身も夜勤中、その部屋の前を通ったときに「はぁ……はぁ……」という老人の微かな呼吸音を聞いたことがあるそうです。


 耳を澄ませれば澄ますほど、それは胸の奥に直接響いてくるような感覚だったと話してくれました。


 「それは、清美さんが家族に向けた恨みなのか?それとも、私たち職員に向けられたものなのか?私の方が教えてもらいたいくらいです!」


 そう言って高山さんは言葉を濁し、それ以上は語ろうとしませんでした。


 この話を取材していて、私は強い恐怖を感じました。ただ、全てを「霊現象」と片づける気持ちにはなれません。


 愛する家族に蔑ろにされ孤独のうちに亡くなった人の無念が、職員の心に影のように残り、音や影の錯覚を引き起こしたのかもしれません。


 けれど、その後の家族に相次いだ不幸や、複数の職員が同じ‶白い影〟を見たという証言は、偶然や思い込みだけでは説明できない気もします。


 高山さんの「まだ、あの呼吸は続いている」という言葉は、今も耳の奥にこびりついて離れないのです……。

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