第36談 不思議な落とし物
私が後藤さん(仮名50代男性)の体験を伺ったのは、友人の紹介によるものでした。
「川沿いを走っていて、不思議なものを見続けている人がいる」――そんな前置きを聞かされた時点で、私は半信半疑ながらも妙な高揚感を覚え、彼の近所のファミレスで取材に応じてもらったのです。
彼は数年前から、健康のために休日の朝には川沿いを走ることを日課にしておりました。
夏は蝉の声、冬は川面に漂う冷気。その遊歩道は、老若男女が散歩やジョギングをする、ごく普通の場所だった。
けれど、ある時から、そのコースの一角――土手の端にある古びたベンチの横に、妙な違和感を覚えるようになりました。
必ずそこに、一本のビニール傘が置かれているのです。
白い持ち手、透明な生地。傘の骨は折れておらず、むしろ綺麗に見えました。
初めて見た時は、(忘れ物だろう)と思ったそうです。だが翌週も、その翌週も、まるで誰かが「置いている」かのように、同じ位置にありました。しかも、ほんの数ミリも動いた気配がないのです。
「誰かが回収するでもなく、風に飛ばされるでもなく、ずっとそこにあるんですよ」
後藤さんは、走りながらチラッと視線を送るたび、胸の奥がヒヤリとするのを感じました。
そして、ある週末の午後。
突然の夕立に打たれた彼の目に、その傘が映ったのです。水滴が生地を伝い、濡れた土の匂いが立ち込める中、彼は足を止めました。
(ちょっと借りるだけなら、いいか……)
そう思い、傘を掴んだ瞬間。
手の中の柄に、黒々とした油性ペンの文字が浮かび上がりました。それは子供の名前でした。しかし、書体はどこか古めかしく、滲んでいたといいます。
ただの油性ペン文字のはずなのに、触れた瞬間、指先が文字に縫いつけられたような気がして、思わず手を引っ込めてしまったそうです。
「その時、背中を冷たいものがスッと撫でて『使うな!』って、誰かに言われた気がしたんです」
結局その傘を元の場所に戻して、彼はびしょ濡れのまま帰宅しました。
ベンチを離れる瞬間、子供がクスッと笑うような声が、雨音にまぎれて聞こえた気がしたそうです。
数日後。
彼が、某SNSの地元の情報交換用コミュニティを何気なく見ていた時でした。
『土手のベンチに傘が落ちてました。拾ったので、どうしましょうか?』
そんな投稿があり、添付された画像には、まぎれもなく“あの傘”が写っていました。
軽い気持ちで、後藤さんが『それは置いてある傘ですよ』とコメントしたところ、数分もしないうちに投稿は削除され、投稿者のアカウントも消えてしまったそうです……。
不穏さを覚えた彼は、翌週末に図書館で過去の地方新聞を調べました。
そこに載っていたのは――二十年前、その川で小学生の男の子が溺死した記事でした。
亡くなった少年の名前は、あの柄に書かれていた文字と一致していました……。
以来、後藤さんはベンチの横を走るとき、決して目を向けないようにしている。
ただ――奇妙なことに、傘はもうどこにも無いのに、雨の日だけ、背後から小さな足音や笑い声が聞こえてくる時があるという。
「走っていてもね、あそこだけ空気が重いんですよ。誰もいないのに、水気を含んだ子供の手みたいに、背中に触れる感覚があるんです」
そう話す後藤さんの表情は、最後まで冗談や嘘を言ってるようには見えなかった。
……取材を終えた帰り道、私はあえて、後藤さんから聞かされた川沿いの遊歩道を通ってみた。
傘などどこにも無い。けれど、件のベンチの横の地面に、不自然に濡れた丸い跡が二つ並んでいた。
それが、まるで小さな子供の靴跡のように見えて、私は目を逸らすしかありませんでした。




