第33談 夕暮れの児童館~もういいよー!と囁く子~
私は20代の頃、某ファミレスでアルバイトをしていました。
そこで一緒に働いていた同世代の女性に、T・H(仮名)さんがいます。
やがて彼女は恋人と結婚し、お店を辞めていきました。
以後、連絡を取る事もなく、思い出す事も滅多にありませんでした。
――あの日までは。
今から数年前。彼女とは共通の先輩の結婚式で再会し、二次会の居酒屋で偶然隣り合ったのです。
最初は懐かしい思い出話をしていたのですが、私が「怪異体験談を集めている」と口にした瞬間、彼女の笑みは消えました。
その顔を見て、ほんの少しだけ、周囲のざわめきが遠のいたように思えました。
そして彼女は、盃を持つ手を震わせながら低い声で言ったのです。
「……それじゃあ、ひらやま君だから話すけどね。私、どうしても忘れられない出来事があるの」
T・Hさんには、小学4年生の息子、R君(仮名)がいます。
放課後になると、近所の児童館に通うのが日課でした。
児童館は3階建てで、2階にはアスレチック施設、1階には図書コーナー。子供にはまさに天国のような場所です。
しかし、3階の奥――そこだけは違いました。
ドアノブを鎖で巻かれ、南京錠で固く閉ざされた扉。
児童たちの遊び場には似つかわしくない重苦しさが、通るたびに胸を圧迫するのです。
子供たちはその部屋を〝開かずの間〟と呼び、噂を囁き合っていました。
夕暮れ時、一人でその前に立つと、扉の中から子供の声がする。
「おーい……おーい……あけてよ……ずっと一緒に遊ぼうよ……」
その声に応じて扉を開けた子供は、二度と帰ってこられない……という噂話でした。
よくある子供同士に伝わる怖い話のように聞こえます。
けれど、夕暮れの児童館を想像すると、言い知れぬ寒気が私の背を撫でました。
ある日のこと。
友人たちが先に帰り、ひとりで児童館に残っていたR君は、ふと開かずの間の扉の前に立っていました。
いつもなら、銀色の鎖がぎっしり巻かれているはずなのに――なぜか、その日は垂れ下がって、床に触れていたのです。
南京錠も外れかけ、扉は僅かに開いていました。
時刻は夕暮れ時。
窓から差し込む橙色の光は長く伸び、廊下の隅々まで影を滲ませています。
妙に空気が冷えて鼻に微かな埃の匂いが漂っていたと、後でR君は母に言ったそうです。
退屈しのぎもあって、彼は扉を押し開けてしまいました。
部屋の中は、外よりもさらに冷たく、湿った空気で満ちていました。
窓のない暗闇の中、しばらくすると輪郭が浮かび上がり、積み上げられた机や椅子の影が無秩序に蠢いて見えたそうです。
足音が響くたび、薄い木板の床が軋み、その音だけが異様に耳に残りました。
「なんだぁ、ただの物置か」
安堵しかけた瞬間、背後で――
「……もういいよぉ」
突然、声がしました。
壁でも天井でもなく、部屋そのものから染み出すような声。
高いのか低いのか分からない調子で、確かに子供の声でした。
身体が金縛りに遭ったように固まり、心臓の鼓動だけが耳に反響します。
足元に何かの気配を感じ、視線を落としたその時。
――小さな男の子がしゃがみ込み、こちらを見上げていたのです!!
年齢は恐らく5〜6歳ほど。
顔は妙に白く、輪郭がぼやけているようでもありました。
やがて、その口元がニタリと裂けるように笑ったのです。
R君は悲鳴を上げることもできず、視界が暗転しました。
気がついた時には、母親のT・Hさんと職員たちが覗き込んでいました。
後に聞いた話では、見回りの職員が〝開かずの間〟の鎖が外れているのを発見し、中を覗いたところ気を失ったR君を見つけたのだと言います。
ただし、その時に部屋にいたのはR君一人だけだったそうです。埃の匂いだけが強く残っていた、と職員は証言しました。
「本当に、息子が死んでしまったんじゃないか!?と、あの瞬間は思ったよ」
T・Hさんは、その時の恐怖を今も消せない様子で語りました。
事情を知った館長は、封鎖の理由を説明しました。
10年ほど前、物置として使っていたその部屋で、小学1年生の男児が荷崩れに巻き込まれて亡くなりました。
以来、職員が「声を聞いた」「視線を感じた」と怯えるようになり、事故防止の名目で鎖と南京錠を掛けたのだと。
帰り際、R君は「ごめんなさい」と館長に頭を下げました。
すると館長は職員全員に問いました。
「今日、誰かがあの部屋を開けたのか?」
誰も答えませんでした。
南京錠の鍵は児童館の事務所で厳重に保管されている。子供が開けられるはずもない。
それでは――あの日、鎖を解いたのは誰だったのでしょうか?
私の見解ですが、R君が部屋に入ったのは、ちょうど日が沈みかけた〝逢魔が時〟でした。
古くから魔物や物の怪に出会いやすい時刻とされています。
その時間帯だけ、あの部屋の奥には“友達を求める亡き少年の声”が滲み出すのかもしれません。
……この話を居酒屋で聞いた夜、帰り道にふと児童館の薄暗い廊下を想像してしまい、背筋が冷えました。
「事故で亡くなった子供の霊がいるのかもしれない」と思う一方で、鎖を解いた存在は誰なのかという疑問が残ります。
あの日。R君が見たのは、本当に〝ひとりの少年の霊〟だったのか?
それとも、彼にしか見えない〝何か〟もっと大きなものの一部だったのか?
実話怪談というのは、結局の所、答えを出してはならないのかもしれません。
日常のすぐ隣に潜む「説明のつかないもの」がある、その気配を感じることこそが怪談の本質なのだと、私はこの話を通じて改めて思わされました。




