第30談 紫衣の監視者
今回紹介するのは、SNSを通じて私に寄せられた体験談です。
送り主は、Sさんという三十代の男性。数年前、ある地方都市の遺品整理を請け負う会社で働いていた頃の出来事だそうです。
ある日の午後、会社に一本の依頼が入りました。
「二十代前半で事故死した娘の部屋を整理してほしい」という母親からの依頼。珍しい話ではありません。
遺品整理の現場では涙や嗚咽がつきもの。Sさんも、淡々と業務をこなすつもりで現場へと向かいました。
けれど、アパートの一室に足を踏み入れた瞬間、彼の鼻を刺したのは、線香の匂いと混ざり合った生乾きの布の臭気でした。窓は開いているのに、風がどこにも抜けない。妙に重たい空気が、肌に張りつくように感じられたといいます。
「なんか息苦しいな」
先輩社員にそう漏らしかけましたが、口にした瞬間、自分だけが異常を感じているような気がして、黙り込んでしまったそうです。
作業を進めていたとき、Sさんは机の引き出しからひとつの小箱を見つけました。中にあったのは金色のブレスレットでした。
女神像のような装飾が施されていて、照明の光を反射すると、まるで呼吸しているかのように淡く瞬きました。
「綺麗だなぁ」
無意識に指先でなぞると、ひやりと冷たい感触が腕まで伝わってくる。ほんの一瞬、金属ではなく生き物の肌に触れたような錯覚があったといいます。
彼には、ちょうど同棲中の彼女の誕生日が迫っていました。
(これを渡せば、きっと喜ぶだろう)
そんな出来心が頭をよぎり、彼はブレスレットをポケットに忍ばせてしまったのです。
その夜、彼は帰宅すると、彼女にブレスレットを差し出しました。
「少し早いけど、誕生日プレゼントだよ」
彼女は瞳を輝かせて喜び、その場で腕に巻きました。
金色の輪はぴたりと肌に吸いつくように馴染み、外そうとすると、なぜか彼女は「外せないみたい」と笑いながら言ったそうです。
数日後のことです。仕事から戻ったSさんを待っていたのは、青ざめた彼女でした。
「ねえ、仕事から帰ってきたら玄関の前にこんなものが……」
彼女が震えながら指差したのは、大きなダンボール箱でした。
ガムテープは雑に剥がされており、まるで中身が自ら外へ溢れ出そうとしているかのように、隙間から異様な空気が漏れ出していました。
恐る恐る箱を開けると――中には日本人形やリカちゃん人形が幾体も無造作に押し込まれていました。
ただし、それらはすべて刃物のようなもので全身を引き裂かれ、髪はむしり取られ、裂け目から綿やプラスチックの破片がはみ出していました。
何より恐ろしかったのは、どの人形も眼だけは潰されず、ガラス玉のようにぎょろりとした瞳が、箱の中から無数にこちらを睨み返しているように見えたことでした。
鼻を突いたのは甘ったるい樹脂の匂いに、湿気を帯びた古い日本人形の着物のような匂いが混ざった異臭でした。
長く飾られてきた人形ケースを開けた時のような、粉白粉と埃と、どこか生臭さを帯びた嫌な臭気。それが狭い玄関に充満し、Sさんも彼女も思わず吐き気を覚えたといいます。
「きゃああっ!」
彼女は悲鳴を上げ、口元を押さえて後ずさりました。
Sさんは急いでダンボール箱の蓋を閉めましたが、人形の瞳だけは瞼の裏に焼きついて離れませんでした。
「誰が、こんなことを……?」
青ざめた彼女の声は震えていました。
Sさんは「きっと変質者の悪戯だよ」と言い聞かせるように口にしましたが、その声には自分を落ち着かせたい焦りが滲んでいました。
胸の奥では、これは普通の人間の仕業ではないのではないか?という説明できないざわつきが渦を巻き、じわじわと不安を広げていったのです。
やがて、彼は帰宅途中に見慣れぬ集団を目にするようになります。それは全身紫色の衣服を纏い、帽子を深くかぶった男女たちでした。街灯の下で立ち止まり、ブツブツと何かを呟いておりました。
最初は避けて通っていましたが、ある晩、逆に好奇心が勝り、意図的に近づいてみたといいます。
すれ違った瞬間、耳に届いたのは小さな声。
「返せ……返せ……返せ!!」
囁きにしては鋭く、叫びにしては低い。その響きは耳の奥に残り、しばらく消えなかったそうです。
翌日、会社に出勤すると、彼は所長から問い詰められました。
「S君、この間の現場で、金色のブレスレットを見なかったか?」
狼狽したSさんは、問い詰められた瞬間に喉が渇き、うまく声が出ませんでした。
「す、すみません。実は……」
気がつけば、自分でも制御できないほど早口で、本当のことを白状してしまっていたのです。
所長は血相を変えて机を叩き、怒鳴りつけました。
「やはりお前か!依頼者の遺品を盗むなんて何を考えてる!!今日、亡くなった娘さんのお母様から直接電話があったんだ!『娘が神様から授かった大切なブレスレットが無くなった』と泣きながら訴えてきたんだぞ! 信じられるか?お前は人として最低だ!クビだ!二度と顔を出すな!」
その場の空気は凍りつき、他の社員たちも息を呑んでSさんを見つめるばかりでした。足元が崩れ落ちるような感覚を覚えながら、彼は会社を追い出されました。
――その日の夜。
玄関のチャイムが鳴り、ドアを開けると、先輩社員のKさんが立っていました。険しい表情を浮かべたまま、開口一番に言いました。
「ブレスレットを回収しに来た。今すぐ出せ」
逃げ場は、もうないと悟ったSさんは、彼女に全てを話しました。
「ごめん。実は、あのブレスレット、遺品整理の現場から……盗んできたんだ」
言い終えた瞬間、彼女の表情が強ばり、次いで怒りに染まりました。
「なにそれ!?死んだ人の部屋から盗んだ物を、私にプレゼントしたっていうの!最低!信じられない!」
彼女は泣きながらブレスレットを外し、力任せにSさんの胸へ叩きつけました。金属音が部屋に乾いた響きを残しました。
「もう無理!別れる!」
叫ぶようにそう言い残すと、彼女は荷物も持たずに飛び出していきました。ドアが閉まった後、部屋には彼女の香水の匂いと、怒りと絶望の余韻だけが残りました。
Sさんは、うな垂れながら、K先輩にブレスレットを差し出しました。
「これが、盗んだ物です。本当に、すみません」
K先輩は重く息を吐きながらそれを受け取り、しばらく沈黙した後で低い声を漏らしました。
「お前、よりにもよってとんでもない物に手を出したな。これは本当にヤバいんだぞ」
彼は、Sさんから受け取ったブレスレットを手の平に乗せ、しばらく黙っていました。
部屋の照明の下で、金色の輪が微かに揺らぎ、まるで息をしているかのように見えました。
彼の声は普段より低く、どこか震えているように聞こえました。
「先日亡くなった娘さんと、その両親はさ、噂くらいは聞いたことあるだろう?県内でも悪名高い教団の信者だったんだ」
先輩の言葉を聞いたSさんは、ゴクリと唾を飲み込みました。
「教団?」
K先輩は頷き、声を潜めました。
「ただの宗教団体じゃない。信者が〝神から与えられる証〟として受け取るのが、このブレスレットだ。……入信しただけじゃダメなんだ。生まれつき“選ばれた”者にしか授けられない、特別な物なんだとよ」
Sさんは思わず笑い飛ばそうとしましたが、先輩の表情は冗談とは程遠い真剣さに満ちていました。
「それにな。その教団の連中は、よくこう言うんだ。『授かった物は、死後も持ち主と共にある。決して他人の手に渡ってはならない』ってな」
ブレスレットを見つめるK先輩の目が、僅かに揺れました。
「つまり、お前がやった行為は、‶死者から魂ごと奪った〟ってことになるんだよ」
それを聞いたSさんの背筋を冷たいものが這い上がりました。
あの玄関に置かれた人形の山も、不気味な紫衣装の連中も、全てそのせいだったのか?と彼は思いました。
「どうして、どうして、奴らは俺が盗んだって分かったんですか?」
震える声で問うと、先輩はしばらく口を閉ざし、天井を見上げるようにして答えました。
「それは俺にも分からん。ただ一つ言えるのは、あいつらは‶見ている〟ってことだ。生きてる奴の目か、死んだ奴の目か……それすら俺たちには区別がつかない。ただ、信者の家に入った時から、お前はずっと監視されてたんだろう」
その言葉を最後に、部屋の中を沈黙が包みました。
外から吹き込む風でカーテンが揺れ、ブレスレットの金色が一瞬だけ赤く反射したように見えて、Sさんは息を呑みました。
K先輩は、それ以上は語らずにブレスレットを懐へ仕舞い込みました。
ブレスレットを返して以降、彼の前から紫衣装の集団も姿を消しました。
ただし、Sさんは今でも時折夢に見るといいます。
暗闇の中、あのブレスレットが光を放ちながら別れた彼女の腕に巻きついている夢を。
そして必ず、その夢の終わり際に耳元で囁かれるのです。
「まだ、返していないの……?」
Sさんの行為は、単なる出来心に過ぎません。しかし、それは死者と遺族、さらに背後に潜む“信仰”の領域へ踏み込んでしまった。
切り刻まれた人形の無惨な姿や紫衣装の集団は、物理的な恐怖というよりも、「自分が何か大きな存在に見られている」という感覚を与えます。
本当に怖いのは、彼らが「なぜブレスレットを盗まれたことを知っていたのか?」、その答えが一切わからないまま、今もSさんの夢にだけ囁きが続いているという点でしょう。
怪談は往々にして「終わったはずの出来事」に再び口を開かせるものですが、この話もまた、現在進行形で、Sさんを縛り続けているのかもしれません。
※作者注
Sさんからの要望で、身バレ防止のため、ブレスレットや教団の描写については、一部脚色してあります。




