第27談 古井戸より来たるモノ(前編)
某大企業に勤める知人のNさん(仮名40代男性)から聞いた話を、ここでお伝えしようと思います。
――ただしこれは、よくある怪談めいた噂話ではありません。私自身、聞いた夜に眠れなくなったほど、妙に生々しくて恐ろしい話なのです。
この体験をしたのは、Nさんの同僚であるBさんという女性です。
ご本人の希望により年齢は伏せてほしいとのことですが、家庭もあり、仕事も順調で、誰が見ても落ち着いた大人の女性でした。
ある年の春、東京本社から実家のあるG県の支店に転勤が決まり、彼女は久々に家族と暮らすことになりました。
両親と妹、妹の夫とその子供。そしてBさんと旦那さんを合わせると、六人の賑やかな生活です。
最初のうちは「やっぱり実家は落ち着く」と笑っていたそうです。
しかし、庭の片隅に残っていた〝古井戸〟が埋め立てられた日から、少しずつ違和感が忍び寄り始めました。
その井戸は、曾祖父の代に使われていたものでした。
石組みの縁は崩れかけ、長いこと放置されていたため、家族は「子どもが落ちたら危ない」と業者を呼び、埋めてしまったのです。
埋め立て工事の最中、Bさんは妙なことに気がつきました。
――土を掘り返すたび、地面から湿った冷気が這い出してくるのです。
風もないのに背中にまとわりつくようなその冷気に、彼女は思わず鳥肌が立ちました。
けれども、その時は「地下水のせいだろう」と自分を納得させました。
むしろ、両親は空いたスペースに花壇を作ろうと楽しそうに話しており、違和感を口にできる空気ではなかったそうです。
数週間後、両親と妹一家が旅行に出かけ、実家にはBさん一人だけが残りました。
夕飯を済ませ、湯船に浸かっていると――ふと、浴室の窓の外で「ぴしゃ……」と水滴が落ちるような音がしました。
しかし、そこはもう井戸のあった方角です。空耳だと思い直し、眠りにつきました。
真夜中。目を覚ました彼女は、枕元の時計が午前二時過ぎを指しているのを確認しました。
――その時です。
一階から、人の声が聞こえてきました。
最初はテレビの音かと思ったそうです。けれど、帰宅してからリモコンには触れていないことを思い出し、胸の奥がヒヤリと冷たくなりました。
声は複数。囁き合うように低く、湿った調子で続いています。
(泥棒かもしれない……)
そう思ったものの、こういう時に限ってスマホは一階の食堂に置きっぱなし。通報すらできません。
寝巻から洋服に着替えたBさんは、足の裏が畳に触れるたびに冷たく感じながら、ゆっくりと階段を下りました。
声は応接間から。玄関を確かめましたが、鍵は内側からしっかり掛かっています。
扉に近づくと、中からは、はっきりと声がしました。
「……苦しい」
「助けてくれ」
「殺す……殺してやる……」
聞こえるのは四、五人分の声。男女入り混じり、呻きや恨み言ばかり。
しかも、扉越しなのに耳元で吐息を吹きかけられるような生々しさでした。
Bさんは耳を塞ぎたいのに、体が動かない。
背後からも同じ声が追いかけてくるように感じた瞬間、理性が弾け、施錠も忘れて外へ飛び出しました。
夜明けまでファミレスで震えて過ごし、朝に帰宅したとき、応接間は静まり返っていました。
カーテン越しの光の下で見る室内には、何の異常もなく、昨夜の恐怖が夢だったようにも思えたそうです。
ただ――畳にうっすらと、水を吸ったような黒い染みが残っていた、と彼女は言い
ました。
手で触れると乾いていて、水ではない。けれど井戸の底から滲み出した泥のように見えたそうです。
家族に話しても「寝ぼけて悪い夢を見ただけだ」と笑われました。
Bさん自身も「思い込みだったのかも」と言い聞かせたそうですが……
古井戸にまつわる怪談は全国各地に残っていますが、この話が特に恐ろしいのは、〝封じられていたもの〟を不用意に動かした瞬間から、まるで生活の隙間に水が染み込むように怪異が広がっていった点です。
声の正体が何であったかは、Bさんにも分かりません。けれど「日常のなかに潜んでいる異界」があるのだと、改めて思わされました。
もしも、アナタの家の庭にも、古い井戸の痕跡が残っているなら……不用意に触れない方が良いのかもしれません。
最後になりますが、今までの話は、ほんの序章に過ぎなかったのです。
――井戸を埋めたあの庭から始まった異変は、やがて一家全員を巻き込むことになります。
その続きは、また次の機会に……。




