第23談 丑三つ時の執筆
今から十五年ほど前のことです。梅雨が明けたばかりの蒸し暑い夜、私は一通のメールを受け取りました。差出人は、T出版社の編集者である知人でした。
内容は、「新刊のオカルト本に掲載する〝都市伝説〟や〝怖い話〟の短編を、各ページの欄外に掲載したいので執筆してほしい」という依頼でした。
私は快く引き受けました。言うまでもなく、オカルトや怪談に興味がありましたし、短編ならそれほど時間もかからないだろうと考えていたのです。
ところが、いざ作業を始めると、全体で数十話にもおよび、想像以上の分量でした。気がつけば締切まで一ヶ月を切っており、私は毎晩のように深夜遅くまで原稿を書き続ける日々を送っておりました。
その夜も、同じように静まり返った部屋でパソコンに向かっておりました。電気代をケチってエアコンをつけてなかったので、湿気を含んだ空気が肌にまとわりつくような感覚がありました。
ふと時計を見ると、時刻は午前二時を少し過ぎていました。
(あと数話。もう少しだ)
そう自分に言い聞かせて、私は冷めかけたコーヒーをすすり、執筆を再開しました。
その時でした。
——ギィィィ……。
背後から、扉が軋むような音が聞こえたのです。
驚いて振り返ると、閉めたはずの部屋のドアが、僅かに開いておりました。そこから続く廊下は、真っ暗で、まるで深い井戸の底のように静まり返っていました。
(風かな?)
そう思ってみましたが、部屋の窓はすべて閉めており、前述の通りエアコンもつけていませんでした。
私は気持ちを切り替えようと、深く息を吸い、再びキーボードに手を置きました。
しかし、その時から、背中のあたりにジワジワとした圧迫感のようなものを感じ始めました。暑いようで冷たい、誰かが背後に立っているような、そんな奇妙な感覚でした。
(誰かに見られている)
そう確信した瞬間、身体が硬直しました。誰かの視線が、背中を真っ直ぐに貫いてくるような感覚だったのです。
耐えきれなくなった私は、保存だけして作業をやめることにしました。
原稿をいつものように上書き保存し、念のため開き直して確認したところ——そこには、何もありませんでした。
それまで書き溜めていた怪談の原稿だけが、すべて消えていたのです。
他のファイルには全く異常がありません。消えていたのは、都市伝説や怖い話に関する原稿ファイルだけでした。
「そんな!マジかよ!?」
思わず声が出てしまいました。その瞬間、また背後の空気が僅かに動いたように感じたのです。人が通るときに生まれる、ほんの微かな風圧のようなものでした。
反射的に振り返りましたが、そこには誰もいませんでした。
……おかしいと思いました。
そういえば、ここ数日、毎晩二時を過ぎる頃になると、部屋の空気がどこか重苦しくなるのを感じていました。音のない空間に、何かの気配だけが確かに存在しているような、そんな感覚です。
「丑三つ時」——古くから、霊的な存在がもっとも活動的になるとされる時間帯です。私がその時間帯に、恐怖や怨念を題材にした話を書き続けていたことで、〝何か〟を引き寄せてしまったのかもしれません。
その出来事以降、私は原稿を昼間に書くようになりました。不思議なことに、それ以降、データが消えるようなことは一度も起こっていません。
ただ、あの夜に感じた背後からの視線だけは、今でも忘れられないままです。




