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第2談 母と蝶

 これは、私の母が実際に体験した出来事です。


 私が、三歳の頃。祖父は持病の悪化で亡くなりました。幼い私は断片的な記憶しか残っていませんが、生前、祖父がいつも私を抱き上げて笑ってくれたことだけは今も鮮明です。


 祖父は娘である母を殊更に可愛がっていたといいます。祖母の話では、訃報を聞いた母は家族の中でもひときわ深く打ちひしがれていたそうです。


 母が不思議な体験をしたのは、葬儀の前夜でした。


 遺体の安置された和室へ足を踏み入れた母は、静まり返った部屋に座り込みました。閉め切られた窓、線香の白い煙、畳の青臭い匂い……。その中で眠るように横たわる祖父の顔を前にしたとき、押し殺していた嗚咽が喉の奥から洩れ出したそうです。


 ――その時でした。


 耳元で〝ヒラリ〟と羽音のような気配を感じ、顔を上げると、一匹の白い蝶が母の周囲を舞っていたといいます。


 和室はずっと閉め切られていたはず。窓も障子も開けた覚えはありません。


 (どうして、こんな部屋に蝶が?)


 母は手で追い払おうとしましたが、蝶は逃げもせず、まるで寄り添うように彼女の頭の周りを漂い続けたのだそうです。


 やがて母が和室を出ても、その蝶はついてきました。階段を上り、自室の寝室に入って布団に身を沈めるまで――蝶は視界の端でチラチラと舞っていたといいます。


 眠りに落ちる直前、母はなぜか強い親近感を覚えたそうです。まるで誰かが「そこにいてくれる」ような感覚と共に。


 しかし翌朝、蝶の姿はどこにもありませんでした。


 窓もドアも固く閉ざされている。布団の中も、押し入れも探したが、影すらなかった。


 母は不安になり、先に起きていた私の父に尋ねたそうです。けれども父は「何も見ていない」と首を振るばかりでした。


 それからしばらく経ったある日のこと。祖父の四十九日が近づいた頃、母は家事の合間に急に耐えがたい眠気に襲われました。


 銀行に用事があったものの、(少しだけ)と目を閉じると、夢の中で幼い自分が祖父と遊んでいたのだといいます。


 祖父は笑っていて、母も心から楽しかった……ただ、夢から覚めた時には窓口の時間はとっくに過ぎていました。


 その日の夕方、夕飯の支度をしながら何気なくつけたラジオから、冷たい声のニュースが流れてきました。


 「本日午後、○○銀行に強盗が押し入り、抵抗した職員が刺殺されました」


 ――それは、母が行くはずだった銀行でした。


 包丁を持つ手が震え、背筋が凍ったと母は語ります。もし眠らずに銀行へ行っていたら……。


 数日後、母は寝室の掃除をしていて、押し入れの隅にそれを見つけました。


 葬儀の夜に纏わりついていたあの白い蝶――干からびた死骸が、布団の下に転がっていたのです。


 「どうして、今になって……?」


 思わず手を止め、しばらく立ち尽くした母は、やがて静かに呟いたそうです。


 (あの蝶は父だったのかもしれない。銀行に行かせなかったのも……助けてくれたのも、きっと――)


 母は小さな箱に蝶を収め、庭に埋めて墓標を立てました。そして――


 (お父さんありがとう!そして、さよなら!)


 と祈ったそうです。

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