第13談 うごめく悪意……!?
その工場には「夜」がありました。
もちろん当たり前の事ですが、昼の喧騒とは違う〝夜独特〟の空気や顔が、そこには息づいているような気がします。
例えば、工場ではなく、皆様が通われていた小学校などに置き換えてイメージして頂くと、私の言いたい事は伝わりやすいかもしれません。
さて、私が、そんな事を思ったのは、前職の知人のツテでN県にある工具製造工場で勤務してる熊本さん(仮名50代男性)を取材させて頂いたからでした。
熊本さんとは、東京出張の際に時間を作ってもらい、知人も交えて都内の居酒屋でお会いしました。
もう随分長く工場敷地の一角に用意された簡易な〝個室〟で生活し、勤務時間外でも敷地内にいることが多いそうです。
「独身ですし、弟夫婦が住んでる実家に帰るより、工場で暮らしてる方が落ち着くんでね。ハハハ!」
彼は冗談めかして笑ったが、私には、その顔に浮かんだ影が、どこか引っかかりました。
そう思った理由が、この後に語られる話によって明らかになるとは、その時は夢にも思いませんでした。
ある年の秋の夜。夕食を済ませた熊本さんは、工場内の個室でテレビを観ていました。
その細かい内容は、よく覚えていないそうでしたが、バラエティ番組だったといいます。
思わず笑ってしまうような、お決まりの展開。
しかし、ふとした瞬間に、その笑いは消えました。
食卓の上に置いたスマホの画面の時刻が目に入ったのです。
『23:05』
「しまった!見回りの時間じゃないか!」
熊本さんは急いで会社の作業着を羽織り、懐中電灯を手に取ると工場の見回りへと向かいました。
社長から、家賃及び光熱費無料で、工場の住み込みを許可された彼には〝もうひとつの業務〟がありました。
それは操業を停止し、誰もいなくなった深夜の工場内を定期点検するでした。
工場のドアを開けると、いつもより冷えた空気が一気に肌に纏わりつきました。
日中の熱気と喧騒はどこへ消えたのか?湿った鉄と油の匂いが鼻をつき、どこか古い病院のような印象を覚えたそうです。
「今日も、何もなけりゃいいが」
そんな独り言を呟きながら、懐中電灯の光だけを頼りに、彼は広い工場内を歩き始めました。
その日の工場内は、いつもと雰囲気が違ったそうです。
工場内の加工機械たちは黙り込み、配電盤の低い唸り音さえも遠く感じられました。
コンクリートの床を踏むたびに、僅かに鳴る金属の軋み。寒さとは違う鳥肌が、彼の背中に走りました。
「おかしいな?いつもは、こんな音はしないのに?」
その違和感が胸に居座ったまま、工場中央部に差しかかった時です。
〝ドーンッ!!〟
鼓膜を破るような重い金属の倒れる轟音が反響して壁を叩き、工場全体が僅かに揺れたようにさえ感じました。
熊本さんは、すぐさま音の方向へ駆け寄りました。
その間、肌に纏わりつく空気がヌメリを帯び、足音が床に吸い込まれるような感覚に陥ったそうです。
音のした辺りに辿り着くと、周辺を照らしました。
しかし、何ひとつ倒れてませんでした。
工具棚や加工用設備は、全て定位置のまま。床にはネジ一本落ちていません。
けれど、その違和感を飲み込む暇もなく――
〝ドカァン!!〟
今度は、彼のすぐ背後から音がしました。
背筋が凍る。熊本さんは反射的に振り返り、光を向けました。
ですが、そこに倒れた物は、何もありません。
それにもかかわらず、〝誰かが走り去った気配〟がしました。
空気が揺れて、〝何か〟が通り過ぎたような錯覚と風圧。
そして、漆黒の工場内に「クスクス」と子供のような笑い声が響きました。
思わず声の聞こえた方向へ、懐中電灯の光を向けた時、熊本さんの視界に〝それ〟が映りました。
工場内で1番古くて大きい機械の横に、小柄な人影が立っていたのです。
背丈は小学校低学年ほど。だが、その姿はあまりに、輪郭が曖昧で、靄がかったように見えたといいます。
懐中電灯に照らされた瞬間、〝ソイツ〟は熊本さんの方を振り向きました。
電灯から発せられる光に照らされてたにもかかわらず、その全身は影法師のようになっていましたが、その〝両目と口〟だけが白く、異様に鮮明に浮かび上がっていたのです。
〝得体の知れない子供のような存在〟は、熊本さんを小馬鹿にするように〝ニタァ〟と、口角を持ち上げるように笑いました。
ソイツは男の子か?女の子なのか?全体像が確認出来ないので、性別や服装さえも定かではありませんでした。
しかし、彼は、その笑みを見た瞬間、肌の内側を針で引っかかれるような悪寒に襲われました。
子供のような姿に見えたにもかかわらず、その〝目と口〟からは、人を弄ぶような明確な〝悪意〟が滲み出ていたのを本能で感じました。
刹那、熊本さんの体の内側がきしむような痛みが走ったそうです。
(これは見てはいけないものだ)
彼の直感が、そう告げた時。
子供のような人影の〝ソイツ〟は、音もなく熊本さんに背を向けると、スルリと暗闇の向こうへ走り去りました。
けれど、その足音は一切聞こえませんでした。代わりに、まるで冷たい風が熊本さんの足元を撫でるような感覚だけが、通り過ぎていったそうです。
〝奴〟は、確かに消えたはずでした。
しかし、熊本さんは工場の空気が、どこか〝おかしい〟と感じました。
室内の照明を点けたはずなのに、その光はどこか頼りなく、天井の隅や機械の裏に濃い影が残っていたそうです。
蛍光灯が、微かに〝チ……チ……〟とノイズを刻んでいました。
熊本さんは、ゆっくりと懐中電灯を下ろし、工場全体を見回しましたが、目に見える異常は見当たりません。
だが、音がしていました。
コンクリの床を〝何か〟が爪で引っかくような擦れた高音。
工具棚の裏、配電盤の隙間、誰もいないはずの影の中から、耳の奥をかき乱すような微細なノイズが混ざり合っていたのです。
「やっぱり、いる。まだ、何かいる」
口に出した途端、彼の喉の奥に鉄のような味が広がりました。
気づけば背中から冷たい汗が滲み、手に持った懐中電灯はジットリと濡れていたそうです。
足音はありません。声もありません。しかし〝悪意に満ちたアイツ〟が、まだ工場内のどこかに潜んでいて、熊本さんを見下ろしているかのような感覚だけが、ジワジワと体内に染み込んでいく気分がしたそうです。
恐怖が限界に達した彼は、その場から逃げるように個室の方へ走りました。
その間、背後から、〝ギィ……ギィ〟と古びた扉の開閉音のような音が追いかけてくるような錯覚に駆られていたと熊本さんは語ってくれました。
彼は、部屋に戻るとドアを閉めて、布団に潜り込みました。
それでも、しばらくは工場の方から、小さな足音のようなものが響いてきたそうです。
〝トン……トン……トン……〟
――それは、何かを待つような、リズムのように聞こえました。
翌日、彼は社長に直談判し、夜間の見回り業務を外してもらいました。
それ以降は極力、夜になると早めに眠って暮らすようになりましたが、工場の個室での生活自体を辞めることはありませんでした。
「いや、工場を出てったって、どこにいても、〝アイツ〟の足音が聞こえてくる気がしてね」
そう言った熊本さんの視線は、私の顔を向いてたものの〝心ここにあらず〟という印象でした。
……この話には後日談があります。
件の出来事から半年後。寝付けない熊本さんは、工場近くにある昔ながらの小料理屋で酒を飲んでました。
彼は、酔った勢いで店の女将さんに、〝あの夜の出来事〟を話しました。
すると、それまで笑顔だった彼女の表情が、突然険しくなり言葉を選ぶように、こう答えました。
「あの工場がある場所には、昔から〝そんな噂〟があるのよ」
熊本さんが、詳しく話を聞いたところ――
今から数十年前。彼の職場である工場が建設される前、そこは〝空き地〟でした。
そして、ある夏の夜。近所に住んでいた一人の小学生の子供が行方不明になり、一週間後、その空き地で遺体となって発見されました。
犯人は捕まらず、事件は迷宮入りとなったそうです。
第一発見者の話によれば、子供の遺体の口と両目は、何故かガムテープで塞がれていたと……。
「その事件以来なのよ。夜になると、あの場所で走り回る子供の姿を見かけたり、逆に誰もいないはずなのに子供の声が聞こえるって……そういう噂話が出始めたのは」
熊本さんは、女将さんの言葉を遮ることなく黙って聞いてました。
彼女の話を聞いて、何かを納得したようでもあり、諦めを感じた境地になったといいます。
「あの日見たアイツが、その子だったのかは、正直わかりませんよ」
熊本さんは、最後にそう言ってタバコを一本取り出しました。
火を点けようとしたその手が、僅かに震えていたように見えました。
「今にして思うと、アイツは〝見つけて欲しい〟んじゃなくて、〝何かを探してる〟ような目をしてた気がするんです。俺じゃない、別の〝何か〟をね」
煙の向こうで、熊本さんの目だけが、妙に赤く見えたのは私の気のせいだった……と思います。
あの夜、工場で起きた〝不可解な出来事〟と、数十年前に起きたという子供の〝惨殺事件〟。
それが直接関係あるとは、誰にも証明出来ません。
今夜も、N県の工場の奥では、誰もいないはずの空間から、子供が走り回るような音が響いているのかもしれません……。




