第32話 それでも残るもの
雨が降っていた。
街道の土は柔らかくなり、靴の裏に重くまとわりつく。
リーシャが肩をすくめた。
「……戻るのか」
「はい」
ミナトは、雨の向こうにある山並みを見た。
数日前、追い返された村――あの村の方角だ。
「助けなかった場所に、戻るのは変じゃないか」
「助けなかったからです」
リーシャは口をつぐんだ。
分かっている。分かってしまう。
助けなかった場所ほど、気になる。
壊れていないか。壊れてしまったか。
村の入口は、変わっていなかった。
柵。湿った土。低い屋根。
そして――立っていたのは、あの日の若い女だった。
目が合う。
女は逃げない。けれど、笑わない。
ただ、短く言った。
「……死んでない」
それだけで、ミナトの胸の奥がほどけた。
「それは、よかった」
ミナトは歩み寄らず、その場で頷いた。
距離は詰めない。勝手に踏み込まない。
それが、この村への礼儀だった。
女は続けた。
「母は、まだ起きられない」
「でも……前より、呼吸が深い」
ミナトは、視線を落とした。
「村の人たちは?」
「……変わらない」
女は、苦い顔をした。
「治療師は嫌い。今も」
「でも……」
女の声が、小さくなる。
「昨日、誰も“治せ”って言わなかった」
雨音が、少しだけ遠くなった気がした。
リーシャが息を呑む。
ミナトは、ゆっくりと顔を上げた。
「……それは、大きい」
女は、拳を握る。
「本当は、怖いんだ」
「また、壊したくない」
「でも、何もしないのも……怖い」
ミナトは、静かに答えた。
「どちらも、正しいです」
「……正しいのに、苦しい」
「はい」
そのまま、沈黙が落ちる。
雨は止まない。
女が、意を決したように言った。
「診てほしい」
リーシャの肩がわずかに動く。
ミナトは、すぐには頷かなかった。
「……条件があります」
女は身構える。
「村の誰も、責めないこと」
「あなたも、私も」
「うまくいかなくても、“あのとき来たからだ”と言わないこと」
女は、唇を噛んだ。
そして、頷いた。
「……分かった」
集会所ではなく、女の家に通された。
狭い部屋。薬草の匂い。
寝台には、年配の女性が横たわっている。
目は開いている。
だが、焦点が合いにくい。
「……来たのかい」
かすれた声。
女が母の手を握る。
「来てもらった」
「今日は、責めない」
母は、弱く笑った。
「……いい子だね」
ミナトは、椅子に座り、距離を保ったまま手を差し出した。
「手を、失礼します」
許可を待つ。
母が微かに頷く。
触れた瞬間、ミナトは理解した。
詰まりではない。
乱れでもない。
ただ――怖さで縮こまっている。
流れが、身を守るために小さくなっている。
ミナトは針を出さなかった。
呼吸を合わせ、手を離す。
「治療は、しません」
女の目が揺れる。
「……え?」
「今、治療をすれば、“治療が必要な体”になります」
「それは、この家にとって、まだ早い」
母が、ゆっくりと瞬きをした。
「……じゃあ、どうする」
「今日は、呼吸だけ整えます」
ミナトは、母の胸元を指さした。
「息を吸う長さを、少しだけ伸ばします」
「苦しくない範囲で」
女は不安そうに見つめる。
「それだけで……?」
「十分です」
ミナトは、床に座り、母の呼吸に合わせて数を数えた。
吸う。
止めない。
吐く。
吐き切らない。
それを、繰り返す。
五分。
十分。
母の肩が少し下がり、目の奥の緊張がほどける。
「……あ」
女が小さく声を漏らす。
「顔色が……」
母が、かすかに笑った。
「……眠れそうだよ」
ミナトは立ち上がった。
「今日は、これで終わりです」
「明日は?」
女が問う。
「来ません」
ミナトは、はっきり言った。
女の顔が曇る。
「でも」
ミナトは続ける。
「あなたが、今日の呼吸を覚えていれば」
「明日も、同じことができます」
女は、息をのむ。
「……私が?」
「はい」
「治療師は、あなたの家に住めません」
リーシャが、静かに頷いた。
帰り際、女が玄関まで見送ってきた。
雨は弱まり、空が少し明るい。
「……ねえ」
女が、ためらいながら言った。
「母が起きられるようになったら」
「そのときは……」
ミナトは、遮らずに聞いた。
「そのときは、また“来てもいい”って言う」
ミナトは、ゆっくり頷いた。
「ええ」
「呼ばれたら、来ます」
村の入口まで戻ると、遠くから視線を感じた。
柵の向こう、あの日ミナトを止めた男が立っている。
男は近づかない。
だが、逃げもしない。
そして、短く言った。
「……悪かったとは、言わない」
ミナトは立ち止まり、首を振った。
「言わなくていいです」
男は、目を細める。
「……でも」
「壊れなかった」
それだけを、呟いた。
ミナトは、雨上がりの土を踏みしめた。
壊れなかった。
治せなかった。
救えなかった。
それでも――残った。
信じる余地。
呼吸の長さ。
来ていい、という許可。
リーシャが、隣で小さく言う。
「……残るんだな」
「はい」
ミナトは、空を見上げた。
「残るものがあるなら」
「次へ行けます」
二人は、また歩き出す。
次の街へ。
次の村へ。
壊れない線を、置いていくために。
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