第1話 流れが止まっている
回復魔法をかけても、患者の痛みは消えなかった。
傷は塞がり、血は止まっている。
それなのに、顔色は悪く、呼吸は浅く、冷や汗だけが増えていく。
周囲の魔導師たちは首をかしげ、
「呪いだろう」と結論づけた。
――違う。
鍼灸師のカナデには分かった。
これは呪いじゃない。
体の“流れ”が、止まっているだけだ。
回復魔法が万能とされるこの世界で、
魔法では治らない病に向き合うことになった理由を、
彼はまだ知らない。
目を開けた瞬間、空がやけに近かった。
雲が、手を伸ばせば掴めそうな距離で流れている。
――夢じゃない。
背中に当たる地面は硬く、砂利が服の隙間から容赦なく入り込む。鼻の奥に土と獣の臭い。遠くで金属が打ち合う音と、怒号。
カナデ・ミナトはゆっくり上体を起こした。
見慣れない山並み。見慣れない森。見慣れない道。
そして見慣れない格好の人間たち――革鎧と槍、短剣、弓。
「おい! そいつ誰だ!」
声を上げたのは、血まみれの腕を押さえた男だった。腕の外側がぱっくり裂けている。皮膚が開き、赤い筋肉が見えている。出血は多いが、致命的ではない。
……外傷なら、私はいくらでも見てきた。
ただし、ここは病院じゃない。鍼灸院でもない。
「ちょっと待って。救急――」
言いかけて、言葉を止めた。
救急車なんてない。携帯も圏外だ。そもそも、ここがどこかも分からない。
男の隣で、ローブの青年が腕を掲げた。指先に淡い光が灯る。
「《ヒール》」
光が裂けた皮膚に吸い込まれる。
傷が――閉じた。血が止まった。皮膚がつながり、まるで最初から無傷だったみたいに。
ミナトの背筋が冷えた。
魔法? いや、そんな単語で片づけるには現実感が強すぎる。
目の前の男は腕を回している。痛みが消えたという顔だ。
「すげぇ……!」
周囲がざわめく。
ローブの青年は誇らしげに胸を張り、そしてミナトを見た。
「お前、何者だ。治療師か?」
治療師。
その言葉だけは、妙に重く響いた。
「……鍼灸師です」
通じるか分からないまま答えると、青年は眉をひそめた。
「シンキュウ? 聞いたことがない。魔導師でもないのか」
「魔導師では――」
否定した瞬間、別の声が割り込んだ。
「じゃあ役立たずだな。ここは戦場だ。帰れ」
言ったのは、槍を持った女だった。鎧の継ぎ目から筋肉が覗く。顔の半分が血で汚れているのに、目が鋭い。
彼女が指さした先には、道端に転がる若い男がいた。腹を押さえて苦しんでいる。血は少ない。外傷に見えない。
ローブの青年が舌打ちした。
「《ヒール》が効かねぇ……。内臓の損傷じゃない。呪いか?」
呪い。
ミナトは反射的に、その若い男のそばへしゃがみこんだ。
腹部の痛み。呼吸が浅い。発汗。顔色は悪くない。目は焦点が合っている。吐き気を訴えている。
――これは。
ミナトはそっと手を、男の手首に添えた。
脈を取る。指先に伝わる拍動は速く、浅い。
そしてもう一方の手で、腹部を軽く触れた。
「痛い……そこ……!」
男が身をよじる。
押した場所に一致して痛みが跳ねる。右下腹部。反跳痛。筋性防御。――虫垂炎に近い。だが、ここで虫垂炎という言葉を出しても意味がない。
それよりも、気になるのは――。
触れた瞬間、手のひらの下が“冷たい”のに、周辺が妙に“熱い”。
同じ体の中で温度が分断されている。流れが断ち切られている感覚。
ミナトは息を吸った。
「回復魔法は……外側の傷は閉じる。でも、内側の“流れ”には触れていない」
ローブの青年が鼻で笑った。
「何を言って――」
「この人は、切れてるわけじゃない。詰まってる」
槍の女が眉を吊り上げる。
「詰まってる? 腹が?」
「腹というより……全身の流れの方だ」
言いながら、ミナトは自分の腰のあたりを探った。もちろん鍼はない。灸もない。
あるのは、ポケットに入っていた小さな裁縫針――いつも治療着のほつれを直すために入れている癖だ。
こんなもので人に刺すのは本来あり得ない。
だが、何もしなければ目の前の男は悪化する。
――やる。
「おい、やめろ!」ローブの青年が叫ぶ。「そいつは患者だぞ!」
「患者だからやる」
ミナトは男の手の甲に視線を落とした。
手首の少し上。触れると、そこだけやけに硬い点がある。
結節点――ツボに相当する場所。ここが、今の詰まりの“スイッチ”になっている。
「少しチクッとする。呼吸に合わせて、力を抜いて」
「……なに、するんだ……?」
男の声は震えていた。
ミナトは頷き、針を皮膚に当てる。角度をつけ、ゆっくりと。
ぷつ。
抵抗が抜けた。
男の体がびくんと跳ね、次いで――ふっと、肩が落ちた。
「……え?」
痛みの表情が緩む。
呼吸が深くなる。汗の粒が引いていく。
ローブの青年が目を見開いた。
「……なんだ、それ……」
槍の女が、半歩だけ近づいてきた。
「痛みは?」
「……まだ、ある。けど……さっきの、刺されるみたいな痛みじゃない……。腹の奥が……動いた……?」
動いた。
その言葉に、ミナトは静かに息を吐く。
針を抜き、今度は足首の内側に手を伸ばした。
ここも結節点。腹の緊張と関連が強い。
指先で探ると、硬い。押すと痛がる。
「ここも使う」
男が怯えた目を向ける。
ミナトは笑わない。慰めもしない。淡々と、しかし確実に言う。
「大丈夫。治すんじゃない。戻すだけだ」
もう一度、針を当てた。
――数分。
男は、ゆっくりと上体を起こした。
まだ顔色は悪いが、さっきの絶望は消えている。
「……おれ、死ぬかと思った……」
「今すぐは死なない。ただ、無理に動くな。食うな。水を少しずつ。熱が出たら教えて」
ローブの青年が、信じられないという顔で言った。
「……回復魔法も使ってないのに……」
「回復魔法が悪いわけじゃない。得意分野が違う」
ミナトは立ち上がり、周囲を見渡した。
好奇の視線。疑いの視線。敵意。期待。
この世界の“治す”は、光で傷を閉じることしか知らないらしい。
――だからこそ。
そのとき、槍の女が低い声で言った。
「お前、名前は」
「カナデ。ミナト」
「私はリーシャ。……さっきの、あれ。もう一度見せろ」
「あなたが?」
リーシャは自分の胸のあたりを押さえ、唇を噛んだ。
顔色が悪い。目の下に影。呼吸が浅い。
外傷はない。なのに、体が削られている――そんな消耗の匂い。
「呪いだって言われた。回復魔法は効かない。どこに行っても……同じだ」
ミナトは彼女の前に立ち、手を差し出した。
「触っていい?」
リーシャは一瞬ためらい、頷いた。
ミナトは彼女の手首に指を添えた。
脈は細い。冷えと熱が混ざっている。
そして、皮膚の下にある“流れ”が――ところどころ、沈黙している。
詰まりというより、欠け。
流れるはずのものが、途中で途切れている。
ミナトは目を閉じた。
――回復魔法が効かない理由が、ここにある。
「呪いじゃない」
リーシャが目を見開いた。
「じゃあ、何だ」
ミナトは静かに言った。
「流れが止まっている。……たぶん、長い間」
風が吹いた。雲が流れる。
遠くでまた剣がぶつかる音。
ここがどこで、なぜ自分が来たのか。
そんなことは、今は二の次だった。
目の前に“治せないと決めつけられた人”がいる。
――治療師として、それだけは見過ごせない。
「今すぐ全部は戻せない。でも、まず一つ。呼吸が楽になるところから始めよう」
リーシャの喉が小さく鳴った。
「……頼む」
ミナトは頷き、針を取り出した。
そして、彼女の生命の流れに触れるための最初の一点を探し始めた。
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