8:騒動の予感
入学式が終わったのは、午後も日が傾きはじめたころだった。
新入生たちは講堂から寮へと戻る途中、上級生に連れられ、学校の敷地内を見学して回る流れになっていた。教室、食堂、稽古場、鏡張りのバレエスタジオ、そして礼儀作法を学ぶ畳敷きの和室――。天翔専門学校の施設は、どれも厳かで、美しく、そして何よりも張りつめた空気を孕んでいた。
その空気は、上級生の存在によってさらに際立っていた。
一人ひとりの背筋の伸びた所作、無駄のない歩き方、そしてこちらに視線を向けるときの目つき。それらがすべて、圧を持って迫ってくる。
「おい、そこ。歩き方、緩んでる」
突然、前を歩いていた新入生が呼び止められた。とっさに背筋を伸ばすその子の肩が震えているのが、あかねからでもわかった。
(怖い)
そう思った。けれど、それと同時に、ここには確かに「舞台の気配」があった。キラキラした憧れだけでは到底たどりつけない、厳しくも凛とした空気。あかねは胸の奥が、じわじわと熱を帯びるのを感じていた。
だが、その熱はすぐに、冷たい刃によって斬られる。
「……あなた、さっき遅刻してきた子よね?」
通路の角で待ち受けていた上級生たちの一人が、突然あかねに声をかけた。
「あなた。名前は?」
鋭い声だった。振り返ると、そこには上級生らしき女性が3人、腕を組んで立っていた。中心にいる女性は、キリッとした眉と冷ややかな目元が印象的な男役上級生。彼女がひときわ強い威圧感を放っていた。
あかねの背筋がピンと伸びる。同級生たちがそっと横を通り過ぎていくのが見えた。遠巻きに、距離を取ってこちらを見ている澪も。
「鷹宮あかりです……」
「入学式に遅刻するなんて、どういう神経してるの?この世界、時間を守れない人間に舞台は務まらないわよ」
「申し訳ありません……事情があって……」
「事情? そんなの観客には関係ないの。舞台が始まったら、照明がついたら、あなたが遅刻した理由なんて誰も聞いてくれない」
あかりは唇をかんだ。言い訳をするのは簡単だ。でも、この世界では「結果」がすべてだということを、身をもって感じていた。
「何があったにせよ、式に遅れるなんて失礼だし、規律を乱す行為よ。天翔ではそういうの、絶対に許されない」
言葉にはとげがあるが、表情には笑みすら浮かんでいた。まるで“教育”と称して、新入生を試しているかのように。
「すみません……本当に……」
「謝るのはいい。でも、口先だけならいらないわ。行動で示して。今日からあなたは“見る側”じゃなくて、“見られる側”なのよ」
あかねは言葉を飲み込み、黙って頭を下げた。心の中で何度も繰り返した言葉。
(悔しい。でも、これが現実。)
そのときだった。
「……やめてください。必要以上に責めるのはおかしいと思います」
あかねの背後から、凛とした声が響いた。
(澪……)
黒髪が揺れ、まっすぐに上級生の視線を受け止めていた。
「鷹宮さんは、人助けをしていただけです。それは結果的に遅刻につながったかもしれませんが、彼女の行動自体は、責められるべきものじゃないはずです」
「……へえ。あなた、名前は?」
「綾小路澪。彼女のルームメイトです。」
その名が発せられると、周囲の空気が変わった。 上級生たちの目が微かに見開かれる――それは、澪の美貌に対する圧倒的な衝撃だった。
確かに、彼女はそこにいるだけで“絵”になる。
「なるほど。確かに、あなたは……見た目は完璧ね。でも、それだけじゃやっていけないわよ」
「わかっています。ですから、責任を取るという意味でも、これ以上あかねさんを責めるのは筋違いだと思います」
「ふん……じゃあ、二人で連帯責任でも取る?」
澪は少しの間、目を伏せ、それから静かにうなずいた。
「それでも構いません」
あかねは思わず澪の腕を取った。
「澪……私のために、そんなこと――!」
「大丈夫。気にしないで」
その優しい声に、胸がぎゅっと締めつけられた。
その光景を、別の場所からじっと見つめている一人の存在がいた。
紫堂エリカ。
整ったショートカット、男役の風格をすでにまといながら、彼女は無言のまま、澪とあかりを見つめていた。
まるで、二人の距離が近づくのを、許せないとでもいうように――。