6:寮の扉の向こう
天翔歌劇学校の寮、その名も「星の館」は、校舎から桜並木の坂道を上った先に静かに佇んでいた。白壁に赤い瓦屋根、アーチのあるバルコニー、そして大理石風の門扉。どこか中世のヨーロッパを思わせる優雅な佇まいで、まるで舞台の一部のように現実味を帯びていなかった。
その建物の前に立った瞬間、鷹宮あかねは一度深く息を吸った。
いよいよ、本当にここで生活が始まる。
夢にまで見た「スターへの道」の第一歩を、今この足で踏みしめる。
だが、それと同時に――
(どんな子と同室になるんだろう)
という不安が胸の奥を掠めた。
学校が決めた部屋割りで、同学年同士が二人で一部屋。事前に誰がどの部屋になるかは知らされていなかった。
事務局で鍵を受け取ると、彼女の部屋番号は「202号室」と書かれていた。
重たいスーツケースを引きながら、寮内の階段を上り、長い廊下を進んでいく。館内にはすでに何人かの新入生の姿があり、廊下の先々からは賑やかな笑い声や、荷物を整理するガサガサという音が漏れていた。
だが、202号室の前に立った瞬間、なぜかそれらの雑音が遠くに引いていったように感じた。
重厚な木製のドアの向こうに、何かが待っている。
あかねはドアノブに手をかけ、そっとノックした。
「どうぞ」
中から聞こえてきた声は、鈴のように澄んでいた。
ゆっくりとドアを開けた。
その瞬間――
光が差し込んだ。
部屋のカーテンは開け放たれ、午後の日差しが部屋中を柔らかく照らしていた。だが、その中心に立っていた人物が、まるで光そのものを纏っているように見えた。
まばゆい、という表現がこれほど似合う人間がいるだろうか。
少女は窓際に立ち、あかねの方へ静かに振り返った。
白いワンピースに身を包み、艶のある黒髪が肩のあたりで軽く揺れる。その髪は光を受けて深い青黒く輝き、まるで夜明けの空のようだった。
「こんにちは」
その少女が、ゆっくりとこちらを振り向いて微笑んだ。
肌は透き通るように白く、目鼻立ちは整いすぎていて現実味がなかった。横顔の輪郭はまるでギリシャ彫刻。 子犬のような大きな黒い瞳が、まっすぐにあかねを捉えていた。
一歩、その少女が近づいた。
「あなたが鷹宮さん? こんにちは。綾小路澪です」
その声は落ち着いていて、どこか上品な響きを持っていた。
口角をわずかに上げたその微笑は、作り物ではない自然な優しさを宿している。それなのに、見る者を圧倒するような存在感があった。
まるで舞台上にいるかのように、光の中に立つその姿を、あかねはただ見つめていた。
言葉が、すぐには出てこなかった。
(……こんな人が、いるんだ)
美しさとはこういうものだ、と言葉で説明されてもきっと理解できないだろう。それほどの衝撃だった。
「あ……あの、鷹宮あかねです。よろしくお願いします」
ようやく声を出せたあかねは、恥ずかしさに顔が熱くなるのを感じた。
自分が野暮ったく見えるのではないかと、瞬間的に背筋が伸びた。
その瞬間、自分の心が、まるで舞台の幕が上がったようにざわついたことに、気づいた。
(この人と、これから同じ時間を過ごしていくんだ。)
まさに「運命」が、静かに、だが確実に動き出していた。
「……まるで女神みたいだ……」
あかりは思わず心の中で呟いた。
綾小路澪。その名に、どこか貴族的な響きを感じたのは、容姿のせいだけではないだろう。漂う空気、指先の動きひとつにさえ、優雅さと品格が宿っていた。
「鷹宮さん、よろしく。そっちのベッド、使って。もう荷物は片づけちゃったから」
「ありがとう……!」
室内は意外にも質素で、二つのベッドと机、クローゼットがあるだけだった。だが、家具の一つ一つに品のある装飾が施され、空間全体が洗練されている。
窓からは中庭が見下ろせた。桜のつぼみがほころび始め、春の訪れを告げていた。
あかねはスーツケースをベッド脇に置き、ひと息ついた。
(本当に、ここが新しい生活の始まりなんだ)
新しい部屋、新しい友達、そして――新しい夢。
少し心を落ち着けようとベッドに腰掛けると、ふいに綾小路澪が尋ねた。
「鷹宮さんは、男役志望?」
「うん、そう。子どもの頃にテレビで見た男役の舞台に衝撃を受けて……」
「わかる。私も、きっかけはそこ。最初は“こんな世界があるんだ”って驚いた」
「……綾小路さんも男役?」
「私は……娘役志望だったんだけど、身長が高くて。周りからは男役って言われてるの」
「そっか……」
一瞬の沈黙。だがその後、澪は首をすっと傾けて言った。
「でも、男役も悪くないと思ってるわ。女性でありながら“王子”になる。それって、ちょっと素敵じゃない?」
まるで風のように柔らかい声だった。だけど、その奥には揺るぎない芯がある。そう思わせる何かがあった。
「……うん、そうかも」
二人は、ベッドの上に腰を下ろしながら、互いに少しずつ言葉を交わしていった。
出身地のこと。家族のこと。どうして天翔歌劇団を目指したのか。どんな舞台が好きか。 話せば話すほど、あかりは澪のことを「美しい人」と思うだけでなく、「不思議な安心感のある人」だとも感じるようになった。
まるで長い間会っていなかったけれど、本当はずっと知っていたような――そんな感覚。
気づけば、日が暮れ始めていた。
「そろそろ食堂、行ってみようか?」
「うん」
寮の食堂は白を基調とした清潔な空間で、長テーブルがいくつも並び、すでに何人かの新入生たちが座っていた。
料理は栄養士の監修による、バランスのとれた家庭料理。唐揚げに小鉢のおひたし、具沢山の味噌汁、そして白いご飯――見ただけでどこか安心する献立だった。
「おいしい……」
思わず漏れたあかりの声に、澪はふっと笑った。
「これから、こういう食事が続くんだね。健康第一……って感じ」
「そうだね。舞台の体力、維持しないと」
食事を終えて部屋に戻るころには、廊下にはすでに静寂が降りていた。
部屋の照明を落とし、カーテンの隙間から月の光が差し込む。
「……明日、入学式か」
あかりはベッドの中で呟いた。隣のベッドからは、静かな寝息が聞こえてくる。澪はもう眠っているようだった。
(これから、この人と、同じ屋根の下で、同じ夢を目指して、毎日を過ごすんだ。)
どこかくすぐったくて、それでいて胸の奥に温かいものが灯る。
月明かりの下、あかりはそっと目を閉じた。
だが、この平穏の中に、すでに次なる試練の気配が静かに近づいていることを、彼女はまだ知らない。