5:旅立ちの朝
春の気配が少しずつ街に満ちてきた三月末。鹿児島県の郊外にある鷹宮家の一軒家では、早朝から慌ただしい空気が流れていた。
あかねは、部屋に積み上げられた段ボールを前にしゃがみ込みながら、最後の荷物の選別に迷っていた。手に取っているのは、一枚のDVDと、それを包むように置かれた厚紙のファイル。
DVDの表紙には、男役スター・朝霧真白の姿。長身に燕尾服、麗しい横顔に流れるような金髪のウィッグ。次期トップスターとも言われている朝霧真白の目は何かを断ち切るように強く、そしてどこか孤独だった。
(……持っていくか、置いていくか)
彼女にとって、このDVDは出発点だった。朝霧真白に出会わなければ、天翔歌劇団を目指すこともなかった。舞台にすべてを賭けるという決意も、この人の演技を見て芽生えたものだ。
だが――
(学校に持ち込んで、浮かない? 子供っぽいとか、オタクって思われるかな)
専門学校に入れば、周囲は同じ夢を持つ者たち。中には「熱狂的ファン」ではなく、「自分自身がスターになるんだ」と覚悟を決めている子もいるだろう。
(でも、これだけは……)
結局、あかねはDVDとファイルを小さな巾着に入れてスーツケースの中に忍ばせた。寮の自室で、こっそり見るくらいなら、誰にも気づかれない。
それでいい。それで、いいんだ。
「……決まった?」
母の声が階下から聞こえた。
「うん、いま行く」
スーツケースのジッパーを閉める音が、彼女の中で一つの章が終わったことを告げていた。
***
駅のホーム。春霞の空に、始発電車の車輪が軋る音が響く。
見送りに来た両親は、普段どおりの顔をしていた。
けれど、母の瞳の奥には滲む涙があった。あかねがそれを指摘すると、母は笑って手を振った。
「泣かないって決めたの。だって、これはおめでたい旅立ちでしょ?」
「……うん」
「本当に空港まで見送らなくていいの?」
「うん、大丈夫だよ」
「手紙、出すのよ。寮ではスマホもあまり使えないんでしょ?」
「わかってる」
父はただ、ポンと彼女の頭に手を置いた。それだけだったが、重みのある手のひらに「頑張れ」の全てが込められていた。
電車が到着する。あかねはスーツケースの取っ手を握り直し、ゆっくりと乗り込んだ。
扉が閉まり、電車が動き出す。
窓の外で、両親が小さくなるまで手を振り続けていた。
電車の窓から流れる景色は、冬と春がまだ共存しているような、冷たい色とやわらかな光が交差する不思議な風景だった。