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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
26/140

26:早朝の尾行

 夕日が校舎のガラス窓に反射し、長く伸びた影が廊下に揺れていた。

 一日の授業を終えた生徒たちが、それぞれの帰り支度を始める中で、鷹宮あかりは音楽室の前で水筒をしまっていた。肩には疲れがたまっていたが、どこか気持ちは晴れやかだった。

そのとき、小さな声で名前を呼ばれて振り返る。


「……あかり」


 声の主は、同じ一年の橘颯真だった。清潔感のある短めの髪に、凛とした表情が印象的な彼女は、教室の隅で誰かを探すように立っていた。 どこか言いにくそうな表情で、周囲を見回しながら近づいてくる。


「……ちょっと、いい?」


「うん?」


 あかりが首をかしげると、颯真は声を潜めて言った。


「今朝、澪のこと見かけたんだ。寮の外で、まだ朝食の時間にもなってなかったのに……」


「え?」


「すごく早い時間だったと思う。私、朝ジョギングしてて……。澪、制服で寮を出て、そのまま学校に向かってたよ」


「……学校に?」


 驚いて目を見開いたあかりの声が、少し震えていた。


「うん。しかも、講堂の方に入っていったのを見たんだ。なんでそんな朝早くに……って思ったけど、声はかけられなかった」


 あかりは一瞬、言葉を失った。

 講堂?あの広く静かな空間に、澪がひとりで――なぜ? 


「ねえ、あかり」


 颯真が、ゆっくりと声を落とした。


「澪、何かあったのかな……? 朝、表情がすごく暗くて……でも、さっきの授業のときに、あなたと話してる澪を見て、なんだか安心した」


「……私と話してる時の澪?」


 あかりの胸に、じわりと何かが染みこんでくる。

 昨夜。

 声をかけても、澪は何も言わずに部屋へ戻った。その背中は、遠く感じた。

 でも今日の授業中――声をかけたときの彼女は、まるで何事もなかったように、穏やかに微笑んでくれた。


「……どっちが本当の澪なの?」


 口の中でぽつりとこぼした言葉に、自分の心が驚く。

 悩んでる?

 何か、隠してる?

 でも、どうして――私には、何も言ってくれないの?

 胸の奥に、じくりとした痛みが広がった。


(私、何も知らなかった……)


 あの優しくて、気高くて、美しくて、誰より強いと思っていた澪が、今もどこかで、ひとりで何かと闘っているのだとしたら――


(ちゃんと、知りたい)


 あかりは強く、そう思った。

 颯真が「ごめんね、変なこと言って」と苦笑すると、あかりは首を振って応えた。


「ありがとう、颯真。教えてくれて……」


 夕暮れの光が窓から差し込み、あかりの制服の肩を柔らかく照らしていた。



***


 その夜、あかりはベッドの中で、向かいで眠る澪のことを考えていた。

 少し前まで、同じリズムで生活し、同じ空気を吸っていたはずなのに――

 今はその心に、小さな隙間が空いているようで怖かった。


(今日の授業のときはいつも通りと思ったけど……やっぱり、澪は何か秘密を抱えてる)


 時計の針が午前零時を過ぎたとき、あかりはそっと澪の寝顔をうかがった。


(明日、朝、澪の後を追う)



***


 その朝、まだ夜明け前の静寂の中で、鷹宮あかりはまどろみの中にいた。

 夢と現実の狭間。布団の中にいたあかりの耳に、かすかな衣擦れの音が届く。


(……澪?)


 薄く目を開けると、ベッドのカーテン越しに人影が動く気配。

 時計を見ると、まだ午前5時を少し過ぎたころだった。 静かに掛け布をたたみ、音を立てないように荷物をまとめているのは綾小路澪だった。


(やっぱり……今朝もこんなに早く)


 あかりは目を閉じたまま、じっと身動きをせずにやり過ごす。

 澪は、ドアの前で一瞬だけ振り返ったようだったが、結局あかりを起こすことなく、そっと部屋を出ていった。


──その瞬間。


「……今だ」


 あかりは跳ね起きた。足音を殺すように素早く制服を羽織り、髪をひとまとめにくくる。

 澪の足音が遠ざかるまでのわずかな時間を計算して、慎重に、そして急いで寮の廊下に出た。


(あの子……また何か、ひとりで背負い込もうとしてる)


 寒さに少し震える身体を引き締めて、あかりはまだ青白い夜明けの校庭へと走り出す。

 冷えた空気が頬を撫で、草の露が靴の先を濡らした。

 遠くに見えた制服の後ろ姿。

 まっすぐに伸びた背筋、ゆるやかに揺れる黒髪。

 その澄んだ後ろ姿を見て、あかりはやはり思う。


(綾小路澪は……強い。だけど、強くあろうとしすぎる)


 距離を保ちながら、その姿を見失わないようにあとを追う。

 澪は裏手の坂を下りて講堂へと向かうと、そっと扉を開けて中に入っていく。

 講堂の重たい扉が閉まったあと、あかりはそっとその場に身をひそめた。

 こっそり中を覗こうとして講堂の扉に手をかけたとき、きぃ、と静かに開いた。


 薄明かりの中に差し込んだ朝の光が、床に長く影を落とす。

 モップを動かす音が微かに響く空間で、鷹宮あかりはそっと歩みを進めた。


「……澪?」


 思わず漏れた呼びかけに、モップを握る綾小路澪が動きを止める。

 彼女は驚いたようにこちらを振り返り、すぐに目を伏せた。


「あかり……どうしてここに……?」


「……澪こそ、どうしてここで掃除なんてしてるの?」


 あかりの問いかけに、澪は短く息をつき、視線を掃き掃除に戻す。


「……ただの掃除よ」


「嘘。こんなの、当番でもないのに。……誰かに言われたんでしょ?」


 澪の手が、ふと止まる。

 その反応に、あかりは確信する。


「ひどい……そんなの、従わなくていい。先生に言おう? きっとわかってくれるから」


 必死に言葉をつなぐあかりに、澪は振り返る。

 その横顔は静かで、どこか諦めに似た微笑みをたたえていた。


「無駄よ。……この世界は、そう簡単に変わらない」


「……でも!」


「いいの。たった一週間の辛抱だから。私が我慢すればそれで終わること。大騒ぎしても、こじれるだけだわ」


 一つひとつの言葉が、あかりの胸に冷たい水のようにしみ込んでくる。

 そんな中で、澪はふと表情をやわらげ、あかりにそっと言った。


「……お願い、誰にも言わないで」


 その声は、まるで傷ついた鳥が翼をたたむときのように静かで脆い。

 あかりは黙って頷いた。

 澪のために、何かしてあげたい。でも、今はそれが“黙っていること”しかないのだと思った。


「……でも、わたし、手伝うから」


 そう囁いて、あかりはもう一つのモップを取り、澪の隣に並んだ。

 ふたりの間に言葉はない。

 けれど、誰にも知られない静かな時間の中で、心は確かに寄り添っていた。


 その光景を、誰かが見ていることも知らずに――。

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