26:早朝の尾行
夕日が校舎のガラス窓に反射し、長く伸びた影が廊下に揺れていた。
一日の授業を終えた生徒たちが、それぞれの帰り支度を始める中で、鷹宮あかりは音楽室の前で水筒をしまっていた。肩には疲れがたまっていたが、どこか気持ちは晴れやかだった。
そのとき、小さな声で名前を呼ばれて振り返る。
「……あかり」
声の主は、同じ一年の橘颯真だった。清潔感のある短めの髪に、凛とした表情が印象的な彼女は、教室の隅で誰かを探すように立っていた。 どこか言いにくそうな表情で、周囲を見回しながら近づいてくる。
「……ちょっと、いい?」
「うん?」
あかりが首をかしげると、颯真は声を潜めて言った。
「今朝、澪のこと見かけたんだ。寮の外で、まだ朝食の時間にもなってなかったのに……」
「え?」
「すごく早い時間だったと思う。私、朝ジョギングしてて……。澪、制服で寮を出て、そのまま学校に向かってたよ」
「……学校に?」
驚いて目を見開いたあかりの声が、少し震えていた。
「うん。しかも、講堂の方に入っていったのを見たんだ。なんでそんな朝早くに……って思ったけど、声はかけられなかった」
あかりは一瞬、言葉を失った。
講堂?あの広く静かな空間に、澪がひとりで――なぜ?
「ねえ、あかり」
颯真が、ゆっくりと声を落とした。
「澪、何かあったのかな……? 朝、表情がすごく暗くて……でも、さっきの授業のときに、あなたと話してる澪を見て、なんだか安心した」
「……私と話してる時の澪?」
あかりの胸に、じわりと何かが染みこんでくる。
昨夜。
声をかけても、澪は何も言わずに部屋へ戻った。その背中は、遠く感じた。
でも今日の授業中――声をかけたときの彼女は、まるで何事もなかったように、穏やかに微笑んでくれた。
「……どっちが本当の澪なの?」
口の中でぽつりとこぼした言葉に、自分の心が驚く。
悩んでる?
何か、隠してる?
でも、どうして――私には、何も言ってくれないの?
胸の奥に、じくりとした痛みが広がった。
(私、何も知らなかった……)
あの優しくて、気高くて、美しくて、誰より強いと思っていた澪が、今もどこかで、ひとりで何かと闘っているのだとしたら――
(ちゃんと、知りたい)
あかりは強く、そう思った。
颯真が「ごめんね、変なこと言って」と苦笑すると、あかりは首を振って応えた。
「ありがとう、颯真。教えてくれて……」
夕暮れの光が窓から差し込み、あかりの制服の肩を柔らかく照らしていた。
***
その夜、あかりはベッドの中で、向かいで眠る澪のことを考えていた。
少し前まで、同じリズムで生活し、同じ空気を吸っていたはずなのに――
今はその心に、小さな隙間が空いているようで怖かった。
(今日の授業のときはいつも通りと思ったけど……やっぱり、澪は何か秘密を抱えてる)
時計の針が午前零時を過ぎたとき、あかりはそっと澪の寝顔をうかがった。
(明日、朝、澪の後を追う)
***
その朝、まだ夜明け前の静寂の中で、鷹宮あかりはまどろみの中にいた。
夢と現実の狭間。布団の中にいたあかりの耳に、かすかな衣擦れの音が届く。
(……澪?)
薄く目を開けると、ベッドのカーテン越しに人影が動く気配。
時計を見ると、まだ午前5時を少し過ぎたころだった。 静かに掛け布をたたみ、音を立てないように荷物をまとめているのは綾小路澪だった。
(やっぱり……今朝もこんなに早く)
あかりは目を閉じたまま、じっと身動きをせずにやり過ごす。
澪は、ドアの前で一瞬だけ振り返ったようだったが、結局あかりを起こすことなく、そっと部屋を出ていった。
──その瞬間。
「……今だ」
あかりは跳ね起きた。足音を殺すように素早く制服を羽織り、髪をひとまとめにくくる。
澪の足音が遠ざかるまでのわずかな時間を計算して、慎重に、そして急いで寮の廊下に出た。
(あの子……また何か、ひとりで背負い込もうとしてる)
寒さに少し震える身体を引き締めて、あかりはまだ青白い夜明けの校庭へと走り出す。
冷えた空気が頬を撫で、草の露が靴の先を濡らした。
遠くに見えた制服の後ろ姿。
まっすぐに伸びた背筋、ゆるやかに揺れる黒髪。
その澄んだ後ろ姿を見て、あかりはやはり思う。
(綾小路澪は……強い。だけど、強くあろうとしすぎる)
距離を保ちながら、その姿を見失わないようにあとを追う。
澪は裏手の坂を下りて講堂へと向かうと、そっと扉を開けて中に入っていく。
講堂の重たい扉が閉まったあと、あかりはそっとその場に身をひそめた。
こっそり中を覗こうとして講堂の扉に手をかけたとき、きぃ、と静かに開いた。
薄明かりの中に差し込んだ朝の光が、床に長く影を落とす。
モップを動かす音が微かに響く空間で、鷹宮あかりはそっと歩みを進めた。
「……澪?」
思わず漏れた呼びかけに、モップを握る綾小路澪が動きを止める。
彼女は驚いたようにこちらを振り返り、すぐに目を伏せた。
「あかり……どうしてここに……?」
「……澪こそ、どうしてここで掃除なんてしてるの?」
あかりの問いかけに、澪は短く息をつき、視線を掃き掃除に戻す。
「……ただの掃除よ」
「嘘。こんなの、当番でもないのに。……誰かに言われたんでしょ?」
澪の手が、ふと止まる。
その反応に、あかりは確信する。
「ひどい……そんなの、従わなくていい。先生に言おう? きっとわかってくれるから」
必死に言葉をつなぐあかりに、澪は振り返る。
その横顔は静かで、どこか諦めに似た微笑みをたたえていた。
「無駄よ。……この世界は、そう簡単に変わらない」
「……でも!」
「いいの。たった一週間の辛抱だから。私が我慢すればそれで終わること。大騒ぎしても、こじれるだけだわ」
一つひとつの言葉が、あかりの胸に冷たい水のようにしみ込んでくる。
そんな中で、澪はふと表情をやわらげ、あかりにそっと言った。
「……お願い、誰にも言わないで」
その声は、まるで傷ついた鳥が翼をたたむときのように静かで脆い。
あかりは黙って頷いた。
澪のために、何かしてあげたい。でも、今はそれが“黙っていること”しかないのだと思った。
「……でも、わたし、手伝うから」
そう囁いて、あかりはもう一つのモップを取り、澪の隣に並んだ。
ふたりの間に言葉はない。
けれど、誰にも知られない静かな時間の中で、心は確かに寄り添っていた。
その光景を、誰かが見ていることも知らずに――。




