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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第1章 運命の扉
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2:入学試験

 駅から専門学校までの道のり。緊張で口数が少ない受験生たちの中を、あかりは一歩一歩噛みしめるように歩いた。

 春の匂いがまだ遠い季節。固く閉ざされた木々の蕾が、彼女の胸の中の決意とどこか重なる。


 校門をくぐった瞬間、その重厚な建築に、あかねは思わず息をのんだ。そしてあかねの背筋は自然と伸びた。空気が違う。磨き抜かれた石畳、堂々たる建築、遠くから聞こえるレッスンの声――ここは夢の舞台の、すぐ手前の世界。

 歴史ある劇団の魂が染みついた建物。

 あの憧れのトップスターも、ここから始まったのだ。


 受付を済ませ控え室に入ると、すでに何十人もの受験生が集まっていた。年齢は15〜17歳ほど。皆、全国から選び抜かれて来た少女たちだ。彼女たちの髪型、身のこなし、表情一つ取っても、普通の中学生や高校生とは違った。


 だが、その表情に「憧れ」だけではないものが宿っていることを、あかねはすぐに察した。

 殺気。緊張。プライド。

 この場所には、純粋な夢だけでは入れない。野心と努力、時にしたたかささえ必要な世界なのだ。


(やっぱり、本物の戦場って感じね…)


 自分でも驚くほど、口元が自然と笑っていた。恐怖ではない。胸の奥が、熱く高鳴っていた。


 控え室で黒のレオタードとピンクのタイツ、バレエシューズを履き替える。 鏡越しに映る自分を見て、あかりは小さく頷いた。童顔で幼く見える顔立ちに、まだ少女の名残が残る。

 それでも、身長は174センチ。まだ伸び続けている身長は、間違いなく男役にふさわしい。


(絶対に合格する)


 静かに、だが確実に火花が散っている。


 その時――


「失礼します」


 控え室の扉が開き、もう一人の少女が入ってきた。

 艶やかな黒髪を耳上で切り揃え、背筋をまっすぐに伸ばして歩く。彼女が立ち止まった瞬間、控え室の空気が一瞬止まった。


(……あの子、ただ者じゃない)


 あかねは直感的にそう感じた。

 少女は淡く微笑むと、静かに窓際に腰を下ろした。決して誰とも目を合わせない。だがその存在だけで、場の空気を自分のものにしてしまう。

 彼女の名は――紫堂エリカ。

 後に、あかねの生涯のライバルとなる少女だった。


***


 最初の試験はバレエ。


 スタジオは三面鏡張り、床はリノリウム。壁には天翔歌劇団の歴代ポスターがずらりと飾られている。

「受験番号、一番から十番まで、バーレッスンを始めます」

 講師陣の指示に従い、あかねたちはバーに並ぶ。緊張で手が汗ばむ。


(落ち着け。いつも通りでいい。私は舞台に立つつもりで踊るだけ)


 彼女が意識したのは、「魅せること」。ただの型ではない。指先、足先、視線の流れ。どんなに小さな動きも無駄にせず、見ている人の目に「なぜか気になる存在」として映るように心がけた。

 バーレッスンの後、センターレッスンが始まる。トンベ、パ・ド・ブレ、グラン・ジュテ――動きは徐々に難しくなっていく。


 ここで、先ほどのただ者ではない空気をまとっていた少女エリカが一歩前に出た。

 彼女の動きは一言で言えば、「完璧」だった。余計な動きは一つもなく、脚は180度開き、上体は柔らかく、まるで空気をすくうような軽さで跳んだ。


(……うまい。あれが、全国レベルの技術……)


 あかねは、悔しさを噛みしめた。

 でも――負けたくない。負けてはいけない。

 次のターンの順番が来たとき、彼女はひとつ深呼吸をしてから跳んだ。

 脚の高さも、角度も、エリカには及ばない。それでも、彼女の視線はまっすぐ遠くを見つめ、表情は騎士のように凛としていた。


(ここは、私の舞台)


 講師陣の視線が、一瞬彼女に向けられる。



次は日舞にちぶ


 和室に通され、畳の匂いと静かな空気に、あかねの心がまた緊張で波立つ。

 彼女が選んだのは『藤娘』。花を手にする恋する少女の舞い。

 足さばき、扇子の扱い、首の角度――日舞は「静」の芸術だ。動きの緩急よりも、内側から滲む感情を表現できるかが問われる。


(技術では勝てない。でも、私は“その子”になりきる)


 あかねは、藤の花を愛する少女になりきった。花を見つめる目、頬を染めるしぐさ、扇子で隠した微笑――ほんの一瞬の「間」にすべての感情を込めた。

 講師の一人がメモを取る音が聞こえた。


(今の、伝わった?)


 演技を終えたあかねは、息を殺して立ち去った。



続く試験は声楽。


 課題曲は歌劇団の定番曲『白百合の誓い』。男役の若き騎士が、愛と信念を歌う壮大なバラード。

 控え室の外では、何人かの受験生が震える声で練習をしている。声が裏返り、音程が外れた瞬間、誰かが鼻で笑った。


(この雰囲気に飲まれたら終わり)


 順番が回ってきたとき、あかねはステージに立つように深くお辞儀をした。


(これは私の舞台。観客は、講師たち)


 第一声を放った瞬間、自分でも驚くほど低く安定した声が響いた。

 地声のトーンを下げすぎて、女の子らしさを消すのではない。男役としての「色気」や「芯の強さ」を、音に乗せる。

 ラストのロングトーン。瞳を閉じず、まっすぐ講師陣を見据えた。


(……私を、見て)


 沈黙。


 誰かが、小さく喉を鳴らした。



最後の関門は面接。


 午後の陽射しが窓ガラスにじわりと染みていた。

 天翔専門学校の面接会場。 春の空気の中に、ピンと張り詰めた緊張の糸が通っている。

 広めの教室に長机が並び、正面には試験官が三人座っている。

 その前に、ひとりの受験生、鷹宮あかりが立っていた。


「鷹宮あかりさんですね」


 真ん中に座る女性が、書類に目を通しながら言う。 かつて天翔歌劇団の2番手男役まで昇りつめた宝生聖子だった。 次期トップと言われていたにも関わらずあっさりと劇団を退団し、今は天翔専門学校で講師を務めている女性だ。

 その横で無言を保つのは、元トップ娘役で現在は声楽の指導をしている女性。

 そして、端に座るのは、どこか浮世離れした微笑をたたえた如月玲奈。元男役トップスターだ。


 あかりは真っ直ぐに立っていた。

 身長は174センチ。どこか少年のような表情。

 声はやや緊張していたが、目だけは決して逸らさなかった。


「では、鷹宮さん。まず志望動機を教えてください」


「はいっ!」


 少し高めの声で、あかりは口を開いた。


「私は……小学生の時にテレビで観た天翔歌劇団の舞台に心を奪われました。その時の男役の方が、まるで本当に王子様みたいで……でも、それ以上に、舞台全体がまばゆくて、夢みたいで。自分も、あの世界の一部になりたいと強く思いました」


 しっかりした答えだった。三人の試験官は頷いたり、黙って書類に何かを記したりしていた。


「ふむ……では、特技は何ですか?」


再び、宝生が言う。

その言葉に、あかりはほんの少しだけ口ごもった。


「……特技、ですか?」


「ええ。あなたにしかない、特別なものがあれば教えてください」


 一瞬迷って、でも腹を決めたように、あかりははっきりと答えた。


「……ブリッジで、歩けます」


「……?」


 一瞬の沈黙。

 試験官たちの目が、一斉に鋭くなる。


「……実際に、やってみてもらえますか?」


 宝生が眉をひそめる。

 あかりは戸惑いながらも「はい」と返事をして、前に出た。


 ジャージの上着を脱ぎ、床に手をつき、体を反らせる。 一瞬で、完璧なブリッジの体勢に入った。 そしてそのまま、足を交互に踏み出し、後ろ向きに器用に進んでいく。


 ぎしっ、ぎしっ……。


 まるで映画のワンシーンのような動きだった。


 宝生は思わず目を見開いた。


「ちょ、ちょっと……あなた、何を……」


「や、やめなさい、そういう不気味な真似は……」


 声楽担当の試験官も、目を背けるように言った。

 一瞬、空気がざわりと乱れた。

 だが――如月玲奈だけは、静かに、じっと見つめていた。

 その目には明らかな興味が宿っていた。


(なるほど……奇抜、でも軸がぶれてない。身体の柔軟性と筋力、そして“やりきる”意志……悪くない)


 あかりが体勢を戻して、頭を下げた。


「……失礼しました」


 再び前に戻ったあかりに、宝生は咳払いをひとつした。


「……えー、では、次に……」


 その後の質問は淡々と進み、空気は元通りの緊張感を取り戻した。


***


 面接終了後、三人の試験官は会議室に移動し、それぞれの評価を提出していた。


「……あの子、ちょっと変わってるわね。あんな特技、何になるのかしら」


 声楽担当が顔をしかめると、宝生も無言で頷いた。


「素直にピルエットでもやってくれればいいのに……」


 ただ一人、如月玲奈はにこやかに言った。


「私は、嫌いじゃない。――あの図太さ、舞台に立つには必要な資質よ」


 彼女の指先は、静かにあかりの受験票の上を滑っていた。


「鷹宮あかり、ね……面白い芽が出てきたわ」


 微笑の裏に、何かを見抜くような鋭さが滲んでいた。


***


(私、ちゃんと爪痕を残せたのかな…)


 試験が終わった夕暮れ、あかりは帰り道で思わず涙をこぼしていた。

 不安も悔しさもあった。だけど、それ以上に――あの舞台に少し近づけた気がした。

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