18:有名人
午前の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、授業を終えた生徒たちが、ぞろぞろと食堂へと向かっていた。
食堂のざわめきの中、鷹宮あかり、綾小路澪、結城さら、水瀬大河の4人は窓際のテーブルで昼食をとっていた。笑い声や箸の音がそこかしこに広がっているが、あかりのテーブルは穏やかな空気に包まれていた。
「午前のバレエ、しんどかったなあ……」
大河がストレッチ不足でつった足をさすりながらぼやき、さらがそれにくすくすと笑ったその時だった。
「──まあ、こんなところに“遅刻の子”がいるとはね」
突如、背後から鋭い声が飛び込んできた。
ぴたりと箸を止めるあかり。その声の主は、制服のネクタイに金の縁が入った2年生だった。立ち姿の美しい長身の上級生が、あかりたちのテーブルに歩み寄ってくる。その背後には、二人の取り巻きらしき上級生たちが静かに従っていた。
「天翔専門学校の入学式に遅刻なんて、前代未聞。ほんと、よくもまあそんなことで入学できたものね」
切り裂くような声音に、食堂の周囲の空気が少しだけ凍りついた。ちらちらと視線がこちらへ集まる。
「あ……」
隣に座っていたさらが、小さく息をのんだ。
その目がわずかに見開かれ、何かを“思い出した”ような色を宿す。頬がわずかに青ざめ、口元が震えた。
さらは何かを言いたげにあかりの横顔を見つめた。しかし──
「……っ」
その一言は、喉の奥に呑み込まれた。
上級生の鋭い視線が、さらの背を貫いている。さらは怯えたように目を伏せ、スプーンを握る手が小さく震えていた。
「しかも、その“伝統ある看板かけ”の担当だなんて。笑っちゃうわ。成績だって、下から数えたほうが早いんじゃなかったかしら?」
上級生の口調は完全に見下していた。あかりの頬がじんと熱くなる。しかし、次の瞬間──
あかりは静かに箸を置き、ゆっくりと立ち上がった。
「……天翔専門学校が“間違えた”とでも言いたいんですか?」
その一言に、上級生たちは明らかにたじろいだ。
「“伝統ある看板かけ”を任されたのは、学校の判断です。その判断を笑うということは……天翔専門学校そのものを否定することになります」
「べ、別に否定してるわけじゃ──」
「そ、そうよ、ちょっと言ってみただけじゃない」
言い訳を口にしながらも、すでに上級生たちは言葉の勢いを失っていた。居心地悪そうに視線を逸らし、そそくさとその場を後にする。
しばらくの沈黙が落ちた。
「今の、すごかったよ」
大河が笑い、ぽんっとあかりの肩を叩いた。
「……あかね、かっこよかった」
澪の声は、静かで、確かな賞賛だった。
あかりは微笑みながら席に戻る。しかし、ふと気づく。自分の手がわずかに震えていた。
(……私、怖かったんだ)
それでも、言葉にしなかった。代わりに、さらに視線を向ける。さらは黙って俯いていたが、やがてゆっくり顔を上げ、真っ直ぐにあかりを見つめていた。
その視線には──感謝とも、驚きともつかない、複雑な感情があった。
「今のあかり、かっこよかったよね?」
大河がさらに笑いかける。
しかし、さらは返事をせず、ただその視線をあかりに向け続けていた。そして、まだその胸の奥にある真実は、誰にも知られてはいなかった。
***
昼のざわめきが落ち着いた頃、食堂の奥まった席で静かに昼食を摂る二人の上級生の姿があった。
ひとりは、均整の取れた長身と切れ長の目を持つ、凛とした空気を纏った男役生徒――嶺山奏。
昨年度、「看板かけ」の大役を任され、その整った舞台映えする立ち姿と気迫ある演技で、すでに劇団内外から“次世代男役スター候補”として目されていた。
その隣には、柔らかな巻き髪に真珠のような肌を持つ娘役――御堂しずくが、涼やかな笑みを浮かべながらスープを口にしている。
御堂家は旧財閥の名家で、しずくはその令嬢にして、成績も常に上位で学年2位。娘役としての佇まいも完璧で、言葉遣い一つにも上品さがにじみ出ていた。
その二人が食事をとっているテーブルから、少し離れたところで騒動が起きた。
新入生の席に向かって、別の2年生が立ち上がり、何やら声を荒げている。
御堂しずくは眉をひそめると、静かに言った。
「また……“風紀委員”のつもりかしら。ああいうの、少し苦手」
「……あれ、あの子」
奏が視線を向けたまま、ぽつりと呟いた。
「あの子が、“看板かけ”?」
御堂が視線を追い、微かに目を細めた。
「鷹宮あかり、だったかしら。たしか成績は……入学時36位」
「そう。ほとんど下から数えた方が早い成績だね」
奏は箸を置き、腕を組んでじっとあかりの姿を見つめた。
新入生でありながら上級生に臆せず言い返し、言葉を噛まずに堂々と立ち向かっているあかりの様子に、わずかに興味を覚える。
「“看板かけ”は、ただの掃除じゃない。“この門をくぐれば夢が始まる”って、伝統の意味を背負う場所だよ」
「あなたが去年、どれだけ緊張してたか、私は知っているわ」
「……だから思の。あんなに震えてる手で、あの看板をかけ続けられるのかな」
「けれど、勇気はあったわ。下級生が上級生にあれだけ言えるのは、なかなかできることではないもの」
奏は視線を落とし、静かにスープをひと口すする。
「……面白い子かもしれないね。下から来て、上に行こうとする。その覚悟があるなら──見せてもらおうじゃない、これから」
「ふふ。あなたって、相変わらず『可能性』に弱いのね」
しずくは微笑みながらそう言い、器用に箸を握った。
ふたりは再び黙って昼食に戻る。しかし、そのまなざしの奥には、わずかに灯った“期待”の光が、確かに宿っていた。
あかりが「ただの下位の生徒」では終わらないと、ほんの少し、彼女たちの胸の中に刻まれていた。