17:初めてのバレエ授業
午前九時。
一同が集められたのは、校舎南館にある第一バレエ教室だった。
四方を真っ白な鏡で囲まれた広い空間。天井にはびっしりと照明が並び、磨かれた床は朝の光を反射して、まるで劇場の幕が開く直前のような緊張感を放っていた。大理石のように冷たいその場に足を踏み入れた瞬間、生徒たちは誰もが背筋を伸ばした。
バレエレッスン用の黒いレオタードとタイツ、そして白いバレエシューズ。全員が規定の装いに身を包み、整列する。髪はきっちりとシニヨンにまとめられ、すでに汗ばむ額を乱すことはない。
そこに、バレエ講師が登場した。
白銀の髪をぴたりとまとめ、抜けるように背筋を伸ばした女性。
目元にわずかに残る舞台化粧の名残が、現役時代の煌めきを物語っていた。
「神原真理子先生。元・花組バレエ主任、そして元娘役トップスター」
その名がささやかれると、スタジオに微かな緊張が走った。
「前に出て。名前を呼ばれたら返事をして」
神原の声は、硬質なガラスのようだった。張りがあり、冷たくも美しい。その声の前では、生徒の誰もがひとつの間違いも許されぬような緊張感を抱いた。
「鷹宮あかね」
「あっ、はい!」
咄嗟に一歩前へ出たあかねは、自分の声が思ったより大きく響いたことに驚いた。
「よろしい。身体は素直そうね。柔軟性と力強さのバランスを見せてちょうだい」
あかねは、バーの前に立った。すでに背中にじんわりと汗をかいている。だが、不思議と恐怖ではなかった。むしろ高揚感。あの舞台の光を目指す者たちが初めて足を踏み入れる戦場——それが今、ここだった。
「プレパレーション、ドゥミ・プリエ」
神原の鋭い指示に従い、レッスンが始まった。
「もっと床を押して。そう、内転筋で立って。あなたは足が強い。けれど、上体がついてきていない」
神原は鏡越しにじっと見つめる。その視線に、あかねは一瞬心を射抜かれたような気がした。全身で集中し、体幹で立ち、腕のラインに神経を通す。
トップスターになるためには、ここで“美”を学ばなければならない。
次に呼ばれたのは、紫堂エリカだった。
立った瞬間、その場の空気が変わった。
足のライン、肩の角度、指先の先端に至るまで一分の隙もない。
バーに手を添えた瞬間、彼女の周囲の空気が緊張でぴんと張り詰めた。
「……ほう。完璧主義者、ね」
神原は小さく呟いた。
「グラン・プリエ、アラベスクまで」
滑らかに動くその姿は、まるで舞台上の王子そのもの。だが、その完璧さの裏にある“緊張感”を、神原は見逃さなかった。
「止まりなさい」
ピタリと動きが止まる。
「あなたの動きは美しい。でも……心が見えない」
その一言に、エリカの唇がわずかに震えた。
「はい、次。綾小路澪」
その名が呼ばれたとき、あかねの隣にいた生徒たちがわずかにさざめいた。
部屋の光が、澪の髪を透かして降り注ぐ。あかねは思わず息をのんだ。
舞台照明もメイクもないのに、彼女はまるで舞台の上にいるようだった。
澪がバーの前に立った瞬間、神原の目が鋭く細められる。
「……綺麗なライン。でも、今はそれだけじゃ駄目よ。バレエは造形芸術ではない。生きて動く芸術なの」
「はい」
澪は静かに返事をして、ゆっくりと動き始めた。
その動きは、エリカの正確さとはまた違った美しさを放っていた。すっと上がる腕、優雅に反る背中。どの瞬間もまるで時間がゆっくり流れているかのような錯覚にさせる、儚くも美しい舞。彼女の黒髪がふわりと揺れ、そのたびにエリカは胸の奥にざわめきを感じるのだった。
(どうして、こんなにも目が離せないの……)
自分でも理由のわからない感情に、エリカは少し困惑しながらも視線をそらせなかった。
澪の動きは指先から足先まで、まるで音楽が流れているかのように滑らかで美しかった。けれど、どこか儚く、自信が揺れているように見えた。
女役として生きたいのに、男役に配属されてしまった彼女。その葛藤が、無意識に滲んでいるように思えた。
「……あなた、本来は女役だったのね?」
神原の問いに、澪ははっとして顔を上げた。
「……そうかもしれません」
「ならば、男役としても魅せなさい。すべての役者は“与えられた場で輝く”の。それが舞台人」
最後に、一ノ瀬ゆらと結城さらが続いた。
一ノ瀬ゆらは、信じられないほどの柔軟性と軽やかさを見せ、講師を驚かせた。
「空気の上を歩いているようね」と神原が呟くほどだった。
一方、結城さらは見た目こそ可憐な雰囲気だが、踊り始めると目つきが変わる。
足の運びは正確無比、体幹の使い方もプロのようで、生徒の誰もが息を呑んで見つめていた。
「すごいね……」と、あかねの隣で誰かが呟いた。
この世界で生き残るには、才能だけでなく、努力と意志が必要だと痛感させられる時間だった。
レッスン終了後、生徒たちは肩で息をしながら汗を拭った。だがその表情は、皆一様に引き締まっていた。
きっと、誰もがトップを目指している。でも、自分はただ“目指している”だけじゃない。「なる」と決めている。
あのステージの光を、絶対に掴み取るのだ。