16:看板かけ
春の空は淡く霞み、柔らかな陽射しが校舎のガラス窓をきらきらと照らしていた。桜はほとんど散り際だったが、朝の風がいくつかの花びらを舞い上げ、小さな夢のように空を漂わせている。
鷹宮あかりは、その光景の中を歩いていた。
「春風って、ほんとに優しいんだね……」
澪の隣を歩きながら、あかりはぽつりと呟いた。まだ少し寒い朝の空気の中に、春のぬくもりを帯びた風が、肌をそっと撫でていく。
制服の裾がひらひらと揺れ、あかりのショートカットの髪が額にかかる。その髪を押さえるでもなく、彼女は顔を上げて、前を見つめた。
前を行くのは、静かに並んで歩く橘颯真と水瀬大河。二人とも真面目に歩を進めながら、何か軽く会話を交わしていた。後ろには一ノ瀬ゆらと結城さら。さらは何か嬉しそうに笑いながら、ゆらの肩をちょんとつついている。
そして、少し距離を置いて歩く紫堂エリカ。その背筋は、朝の日差しを背に受けてさえ、どこか陰を落として見えた。
正門をくぐり、真新しい校舎へと入る。
誰もが、この場所で夢を追う。その、始まりの一日だった。
専門学校の昇降口に置かれた黒板には、1年生全員の掃除場所が一覧で記されている。 その黒板の前で、あかりは一つ深呼吸をした。
「――看板かけ、行ってきます」
と、誰に向かうでもなく、小さく言ってから足を踏み出す。
天翔専門学校の正門横にある木製の大きな看板。金色の文字で「天翔専門学校」と彫られ、黒漆塗りの木地が重厚な存在感を放っている。
その看板は、毎朝誰よりも早く磨かれ、誰よりも多くの目に触れる。
「あたしが……これを、一年間……」
看板の前に立ったあかりは、雑巾を取り出し、慎重に磨き始めた。小雨に濡れたような昨日の埃を拭い取ると、黒漆の光が、朝日に照らされて美しく反射した。
それを見て、あかりはほんの少し、唇の端を上げた。
(きっと、できる。これが私の出発点だ)
***
一方そのころ、校舎の玄関口では、澪とエリカが並んで靴箱周辺の床を磨いていた。
エリカはいつもよりも無口だった。澪の横顔を見るたびに胸がざわつく。
「……なにか言いたいことでもあるの?」
澪がふと声をかけた。
「別に。ただ、あなたは……本当に綺麗だと思う」
エリカは目をそらしながら雑巾を強く絞った。澪はその言葉の意味を量りかねて、小さく微笑んだだけだった。
「……汚れ、思ったよりひどいね」
澪が言うと、エリカは無言で頷きながら、雑巾を丁寧に絞った。
何も話さないエリカは、澪と同じ担当場所になったことに何か特別な意味を感じているのかもしれない。
「紫堂さん、すごく几帳面ですね」と誰かが言うと、エリカは顔を上げずにただ、「当然」とだけ返した。
***
2階の教室では、掃除用のバケツを片手に神田麻琴がため息をついていた。
「なんで鷹宮さんが看板なの? あの成績で、意味わかんないんだけど」
周囲にいた数人がうなずく。
「目立つところって、だいたい上位の子がやるのにね」
「まあ、運じゃない?」
麻琴はバケツの水をこぼさないように、教室の角を拭きながらぼそりと続けた。
「ほんと、こういうところで差がつくのよ。裏でどんなコネ使ったか知らないけど、私ならもっと綺麗に磨ける自信あるのに」
言葉はささやきのように小さく、けれど嫉妬に染まっていた。
そんなことが、あかりの耳に届くことはまだない。
だが、そうした感情が、彼女を取り巻く世界に存在することだけは、きっとあかり自身も、どこかで感じ始めているに違いなかった。