15:朝の支度
カーテンの隙間から漏れる淡い陽光が、部屋の白い天井を静かに照らしていた。今日から本格的な寮生活と授業、そして掃除当番が始まる。
鷹宮あかねは、微かな物音で目を覚ました。枕元の時計はまだ午前六時を少し回ったばかり。
けれどその気配は、隣のベッドから感じる空気の変化でわかる。
澪が、もう起きている。
「……澪?」
かすれた声でそう呼びかけると、薄緑色のカーテン越しに柔らかな返事が返ってきた。
「おはよう。ごめん、起こしちゃった?」
「ううん、大丈夫。澪、早いね……まだ朝ごはんの時間まであるよ」
「でも、身支度には時間がかかるから」
そう言って、澪はすでに制服に着替え、長い黒髪をゆっくりととかしていた。 その動作はまるで舞台に上がる前の女優のように優雅で、同時にどこか儚げで静謐だった。
あかねは、そんな澪の横顔を眺めながら、まだ夢の中にいるような気持ちで掛け布団を押しのけた。
「ねえ、澪……昨日の自己紹介のときさ、36番目ってさすがにショックだったけど、私……なんか悔しくてさ」
「うん。あかね、悔しいって思えるの、すごいよ。わたしは……自分が男役って言われただけで、まだちょっと引きずってる」
鏡越しに目を合わせた澪は、ふっと笑って肩をすくめた。
「でも、前に進まなきゃね。私たち、もう“選ばれる側”じゃなくて、“選ばなきゃいけない側”なんだよ」
その言葉が、あかねの胸に響いた。
選ばれるだけで必死だった日々は終わり、これからは選ばれるための理由を、自分で作らなければいけない。
昨日の夕食の会話、澪との夜の静かなやりとり、エリカの冷ややかな視線。
あかねは胸の中で、それらを反芻しながら制服に着替え始めた。
***
午前七時、寮内放送がやわらかいチャイムを鳴らし、生徒たちに「一日が始まる」ことを告げる。
廊下にドアが開く音、歯磨きのためにスリッパを引きずる足音、誰かの小さな欠伸。
302号室では、橘颯真がすでに制服に袖を通し、机の上に置いた整ったスケジュール帳を開いていた。
「……おはよう、エリカ。今日から本格的な実技の授業が始まるね」
エリカはまだ寝起きの表情で髪を整えながら、鏡に映る自分の顔にわずかに眉をひそめた。
「日舞……あまり得意じゃないのよね」
「私もです。でも、“和”の動きが身体に馴染んでくると、なぜか心が静かになるわ」
エリカは短く鼻を鳴らした。
「あなたって本当に、なんでも受け入れるのね」
「そうかも。でも、受け入れた方が伸びるって、父に教えられたから」
そのとき、寮内の食堂から香ばしい味噌汁の香りが廊下まで漂ってきた。
一日の始まり。すべての才能と嫉妬と希望と不安が、静かに歩き出す朝だった。
***
食堂には、炊き立てのご飯と味噌汁の湯気、甘じょっぱい卵焼きの香りが漂っていた。天翔専門学校の朝は早く、時間になると寮生たちが続々と集まり、静かに列を作って朝食を受け取っていく。
鷹宮あかりは、配膳された湯気の立つ味噌汁と焼き鮭に、どこか遠くを見ているような顔で箸をつけずにいた。
「……いただきます」
口の中でそっと呟いてみるものの、目の前の白米には手をつけられずにいる。心ここにあらずといった様子で、味噌汁を一口啜っては、また箸を置いた。
「……あかり、それだけじゃ足りないよ?」
向かいに座る綾小路澪が、静かに声をかけてくる。その声は、冷たい水のように澄んでいて、けれど温度を含んでいた。
「うん……でもちょっと、今日は無理かも」
「看板かけ、緊張してるんでしょ?」
あかりはうなずいた。うそをつく気力もない。
「そりゃ、緊張するよ。だって、一年の掃除場所の中でも――あれは一番目立つ場所だもん」
「でしょ……毎朝全員が見るんだよ、あの看板」
「でも、あかり。まさかこの一年間、毎日朝ごはん食べないつもり?」
そう言って、澪はいたずらっぽく微笑んだ。
あかりは目を丸くし、それから小さく笑った。
「……そんなわけないでしょ。死んじゃうよ」
「でしょ? だったら、今から慣れるしかないよ。看板だって、お腹が空いてたら磨けないよ」
「……それはそうだね」
あかりは箸を手に取り、少しずつご飯を口に運び始めた。味は変わらないはずなのに、澪に声をかけられたあとのそれは、どこか温かく感じられた。
そして気づけば、二人はいつものように自然に微笑み合っていた。
そんな彼女たちの様子を、少し離れたテーブルから無言で見つめる瞳があった。
紫堂エリカ。
端正な顔立ちに、何の表情も浮かべることなく、ただ、鷹宮あかりと綾小路澪の向かい合う姿を見ていた。
手元の箸には、ほとんど触れていない。食欲がないわけではない。ただ、視線があかりと澪に縫いとめられたまま、時間が止まっていた。
(何をそんなに、穏やかに……)
そう思ってしまう自分に、少し驚いた。感情の名前はまだわからない。ただ一つ、胸の奥で何かがうずき始めたことだけは確かだった。
それは、まだ言葉にならない。 だが、心のどこかで確かに、それは始まっていた。