14:孤高の灯
【天翔専門学校・寮301号室】
廊下に面した二階の角部屋は、夜になると外の風が窓をかすかに揺らし、レースのカーテンが月光を柔らかく受け止める。
その静けさの中、紫堂エリカは机に向かい、無言で化粧水を顔に叩き込んでいた。頬の皮膚がひんやりと冷えるたび、彼女の心もまた研ぎ澄まされていくような気がした。
高い頬骨と引き締まった顎のライン。少年のようなシャープさを持ちながら、どこか女性らしい繊細さも残る。完璧に仕上げた短髪のシルエット。
これが、男役に選ばれし者の顔。
「……綾小路澪」
その名を口に出すと、自分の声が妙に冷たく感じた。
(彼女は、美しい。あまりにも。)
入学式で初めて澪を見たとき、エリカは言葉を失った。
あれほど整った顔立ちを持つ者は、舞台の上でも映えるに違いない。そう直感した。 だが、それ以上に自分の胸に起きたざわめきの正体が、いまだに掴めない。
彼女は舞台の敵か、それとも……。
「バカみたい」
エリカは苦笑するようにつぶやいた。
今夜、食堂での一幕。
澪が鷹宮あかねと笑い合っていた。 ふたりの間に流れる、あの自然な空気。それが妙に気に障った。あかねは明らかに成績も低く、所作も粗削り。けれど、人を惹きつけるものがある。
あんな奴に、澪の隣は似合わない。
だが——
「どうして……あんな子に、目が行くの?」
気づけば、自分の手がぎゅっと化粧水の瓶を握っていた。
「……お疲れ様、エリカさん」
ふと後ろから、落ち着いた、品のある声がした。
エリカが振り返ると、もう一人の302号室の住人——橘颯真がベッドの脇でストレッチをしていた。
正確な角度で畳まれたタオル、整然と並んだ私物。すべてに彼女の几帳面さが現れていた。
「……颯真」
エリカはあくまでクールに答えただけだったが、声の調子はどこか硬い。 颯真はその空気に特に驚いた様子もなく、静かに水筒を手に取った。
そのとき、隣室から笑い声が漏れた。 寮の壁は薄い。 静まり返ったこの時間帯なら、なおさら音は伝わりやすい。
エリカはゆっくりと立ち上がり、カーテンの隙間から月の光を見上げた。 夜の空は、雲が切れ、淡い銀が寮の屋根を撫でていた。
(わたしは、トップになる。)
そのためには、誰とだって戦う。 例え、それが——綾小路澪でも。
心の奥に、冷たい決意が静かに芽を出していた。
誰にも見せぬ嫉妬と焦り。 誰にも負けたくないという、孤独な矜持。 そして、誰よりも深く刺さる“憧れ”という名の痛み。
紫堂エリカの夜は、誰にも知られず、深く、冷たく更けていく。
だがそれは、確かに始まった。
一人の少女が、王冠を手にするための、孤独な旅の序章。 そしてその旅は、鷹宮あかねと綾小路澪という、輝きと影の中で交錯しながら、静かに動き始める。