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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第3章 天翔専門学校2年生
139/140

139:丑三つ時

 どこかで鳥の鳴く声が聞こえた気がして、あかりは目を覚ました。

 あかりはゆっくりと瞼を開けた。ぼんやりとした天井の模様が視界に映り込み、身体の重みと、少し汗ばむ浴衣の感触が意識を現実へと引き戻していく。

 目が慣れてくると、月明かりが差し込む薄暗い部屋の中に、誰かの寝息が微かに聞こえた。

 隣に、誰かがいる。

 そして――裸の肩が、布団からこぼれていた。


(……っ!)


 一気に目が覚めた。

 隣に眠っているのは、宝生聖子。

 聖子の髪が枕元にしなやかに流れ、その横顔は月明かりを受けて、穏やかに、美しく浮かび上がっている。

 記憶が混濁している。けれど、昨晩のことは断片的に思い出される。

 聖子の声。指先。あたたかい吐息。

 そして、自分自身の――あまりにも本能的な応答。


(どうして……私は……)


 頭の中がぐちゃぐちゃになる。

 晩春の夜とは思えないほど、額には汗が浮かんでいた。

 あかりは枕元にあったスマートフォンに手を伸ばし、時刻を確認する。

 午前2時12分。


(このまま、ここにいるわけには……)


 聖子の寝息が止まらないか気にしながら、焦燥に突き動かされるように、あかりはそっと布団から体を抜け出した。

 部屋の隅に置かれた自分の浴衣に手を伸ばし、暗がりの中、急いで身にまとう。


(私は、いったい何をしてしまったの……?)


 自分自身に問いかけても、答えは返ってこない。ただ、心の奥に、冷たい感触だけが残っていた。

 あかりは裸足のまま、そっと部屋の襖を開けた。一歩、また一歩。月明かりの射す畳の上を音も立てずに進む。

 息を詰め、後ろを振り返る。

 聖子は、何も知らないように、布団の中で静かに眠っている。


(大丈夫、気づかれてない……)


 そっと襖を閉めたあと、あかりは足音を忍ばせながら廊下を歩く。

 旅館の本館と別館をつなぐ細長い木造の渡り廊下。

 薄暗いその廊下を、一瞬の迷いもなく駆け抜ける。


 「見られてない……誰にも……見られてない」


 自分に言い聞かせるように、心の中で何度も唱える。


(これは私と先生だけの秘密。誰にも知られちゃいけない)


 本館から別館へとつながる渡り廊下を、小走りで駆けていく。浴衣の裾がふわりと舞い、帯の結び目が背中で揺れる。心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。


 ――その時だった。


 ふいに、視線を感じた。

 あかりは立ち止まる。

 廊下の先も、振り返った後ろも、誰もいない。障子戸も閉まり、灯りもすべて落とされていた。


(……気のせい、だよね……?)


 そう自分に言い聞かせながらも、背中にぞくりと冷たいものが走る。風が廊下を吹き抜け、遠くで木の軋む音が聞こえた。

 あかりは顔を上げ、再び足を動かした。もうすぐ桜の間。誰にも見られずに戻ることさえできれば――。

 その一心で、彼女は再び夜の廊下を走り出した。


 やがて、自分の部屋の前にたどり着いた。

 あかりは慌てて部屋の戸を開け、中に滑り込むようにして入った。

 心臓の鼓動が耳の奥で鳴る。

 ただの被害妄想なのか、それとも、あの視線は確かに誰かのものだったのか。

 だが、この夜、確かに見ていた者がいた。

 廊下の角の、古びた装飾窓の奥の影の中に、誰かが立っていた。その眼は、暗闇の中でも確かに光を宿していた。

 その人物は廊下を足早に通り過ぎるあかりの姿を見ていた。

 その影は、静かに身を翻し、何もなかったかのように去っていった。


**


 あかりは、自分の部屋の襖をそっと閉めた。

 暗がりの中、既に布団に入っている3人の寝息が微かに聞こえる。

 大河も、麻琴も、凪も――変わらずに眠っている。

 昼間の疲れもあってか、皆ぐっすりと眠っているようだった。


(……よかった、起きてない)


 静かに息を吐き、脱ぎかけた浴衣を整えると、音を立てないように自分の布団に潜り込む。

 冷えたシーツが汗ばんだ肌に触れ、微かな震えが走った。

 目を閉じでも、まぶたの裏には聖子の顔が浮かぶ。

 あの柔らかな手の感触。熱を帯びた肌。

 そして、耳元で囁かれた「まずは心を裸にしましょう」という甘く声。


(……なにやってるんだろ、私……)


 自分でも、どうしてあの部屋に行ったのか、明確な答えが出せない。

 ただ、男役として、舞台人として、何かを掴みたかった。

 それだけだったはずなのに――気づけば、聖子の体温に取り込まれていた。


(あれが「演技指導」だったなんて、言えないよね……)


 枕に顔を埋め、深く息を吸い込む。

 部屋の中の空気は、ほんのりと木の香りと布団の柔らかい匂いが混ざっていて、少しだけ安心感をくれた。


(……どうか、誰も気づいていませんように)


 祈るように心の中で唱える。

 それは、まるで観客に気づかれずに芝居を終えたい役者の願いのようだった。


(みんな、ずっと寝てたよね……)


 けれど、心のどこかがざわめいていた。

 あの「誰かの視線」を思い出す。

 誰かが、本当に――見ていたんじゃないか?


(考えすぎ……だよね?)


 目をぎゅっと閉じでも、頭の中の思考がぐるぐると回り続ける。

 しかし、疲れと罪悪感、そして高ぶった心の反動で、やがてあかりは、深い眠りに落ちていった。

 その夜、部屋の誰一人として、何も語ることはなかった。

 ただ、それぞれの眠りの中に、異なる夢を見ていた。

 そして――翌朝、微かに漂い始める空気の変化に、あかりはまだ気づいていなかった。

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