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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第3章 天翔専門学校2年生
136/140

136:椿の間

 「桜の間」には、夜の帳が深く降りていた。障子の向こうには、ぼんやりとした旅館の灯が揺れている。

 静かだった。

 水瀬大河は仰向けで両手を胸の上に置き、規則正しい寝息を立てていた。神田麻琴はきっちりと布団にくるまり、寝返りひとつ打たずに寝ている。佐久間凪は少し寝癖がついたような髪をかきあげながら、うっすらと笑みを浮かべたまま夢の中にいる。

 あかりはというと、まだ目を閉じることができずにいた。

 天井を見上げ、闇に目を凝らす。耳を澄ませば、遠くで風鈴が小さく鳴った気がした。眠れない夜の空気は、どこか懐かしく、少し寂しい。


 ──私の部屋は椿の間よ。私は一人部屋だから、遠慮はいらないわよ。


 宝生聖子のあの言葉が、また頭の中に蘇った。

 本当に行っていいのだろうか。迷惑ではないだろうか。でも、もし本当に誘ってくれたのなら……。

 あかりは静かに、まるで自分の鼓動の音さえも周囲に響いてしまうような慎重さで、掛布団をめくる。

 足音を立てないように、畳の上をそっと歩く。

 部屋の隅にたたんでおいた浴衣を羽織ると、帯を結び直し、乱れた襟元を丁寧に整えた。鏡台の前に座り、少しだけ髪を手櫛で撫でる。ほんのわずか、紅を差すように、リップを唇にひと塗りした。

 寝息を立てている三人の顔を見渡し、静かに部屋の引き戸を開ける。音が立たないように、そっと、ゆっくり。


 廊下には、ひんやりとした木の感触と、夜の古都の匂いが漂っていた。障子越しの月明かりが、淡く床を照らしている。

 あかりは歩き出す。

 音を立てぬよう、まるで舞台の上で所作をするかのように、足をすっと運んでいく。

 向かう先は、「椿の間」。

 あの宝生聖子が一人で泊まっている、特別な空間──。

 あかりの心は高鳴っていた。


**


 廊下には静寂が満ちていた。遠くから微かに聞こえる虫の音と、木造の廊下を踏む足音だけが夜の空気を揺らしている。

 あかりは「椿の間」の前に立つと、小さく深呼吸をした。緊張と高揚が混じったような心のざわめきを抑えきれず、手のひらに汗がにじむ。けれど、引き返す気持ちはなかった。聖子の言葉が、まるで引力のように彼女をここまで導いていた。


 「……失礼します」


 扉を控えめに三度ノックする。すると間もなく、柔らかく扉が開いた。


 「あら、来てくれたのね」


 聖子は、あかりの姿を見て微笑んだ。

 月明かりが差し込む部屋の中に、浴衣姿の聖子が静かに立っていた。白地に淡い紅色の花が咲いた浴衣。ただの旅館の浴衣なのに、聖子が着ると上品な浴衣に見える。少しだけ緩くまとめられた髪が艶やかで、肩に落ちるその髪の先が、どこか妖しくも優雅な色気を含んでいた。

 よく見ると、浴衣の薄布の合わせ目は無造作に少し開いて、胸元がわずかに覗いていた。

 そして、部屋のどこからか――あるいは彼女自身から――ほのかに甘い、熟れた果実のような香りが漂っていた。


(これは……先生の匂い?)


 あかりの喉が、わずかに鳴った。

 足元がふわふわと浮くような感覚。まるで夢の中にいるようだった。


 部屋に足を踏み入れた瞬間、あかりは息を呑んだ。

 畳の上には、すでに一組の布団が敷かれていた。真新しい白い掛け布団が、どこか不自然に整っている。

 まるで――誰かが入ってくるのを、最初から待っていたように。

 そして、それ以外の家具はすべて部屋の隅へ寄せられていたテーブルも、座椅子も、きれいにまとめられて。

 この部屋の「中心」にあるのは、ただひとつ、布団だけだった。


(……こういうつもりだったってこと?)


 今さらながらに、その現実が生々しく胸に迫る。

 火照ったように頬が熱くなる。喉が乾く

 手持ち無沙汰のまま、あかりはその場に立ち尽くした。

 浴衣の袖がわずかに揺れる。

 指先がかすかに震えている。

 聖子は、そんなあかりの様子を静かに見つめていた。

 その視線はどこか優しく、けれど揺るがぬ何かを秘めている。

 そして、少し首を傾げて言った。


 「……そんなところに立ってないで。こっちに来て」


 あかりはハッと顔を上げる。

 聖子は畳の上に座ったまま、手招きするように右手を伸ばす。

 その指先は細く、優雅で、しかし指先の動きひとつまでが計算されたような緻密さを持っていた。


 「ここに座って」


 声は柔らかいが、どこか命令のようにも感じられる。

 優しい声色の中に、拒絶を許さない温度があった。

 あかりは小さく頷くと、ぎこちない足取りで、部屋の隅のテーブルの脇に置かれた座椅子に向かう。

 まるで、舞台の一場面で決められた立ち位置に向かう役者のように――あるいは、なにかの儀式に呼ばれた人形のように。

 座椅子に腰を下ろすと、少しだけ緊張がほどけた。

 けれど、すぐにまた別の緊張が胸を締めつける。

 目の前には、あの布団。

 そして、自分のすぐ隣には、浴衣をゆるく羽織ったままの宝生聖子。

 その襟元は先ほどよりもさらに緩み、細い鎖骨が浮かんでいた。

 白くしなやかな肌に、月の光が溶けていくようだった。


(なんで……こんなに意識してるんだろう)


 あかりは自分の胸の高鳴りに戸惑いながらも、目をそらせなかった。

 聖子はそんなあかりの視線に気づいているのかいないのか、ただ静かにこちらを見つめていた。


 「今夜、ここに来たってことは――そういうことよね?」


 その問いに、あかりの心臓が跳ねた。

 聖子の言葉が何を意味するか。

 それはもちろん、わかっていた。

 この部屋に足を踏み入れることが、どういう意味を持つのか、あかりは理解していた。


 けれど――


(それでも、私は来たんだ)


 それは誘惑に負けたというより、何かに惹かれたのだ。

 演技への執念?憧れ?それとも……

 聖子の持つ得体の知れない引力のようなものに。

 あかりは正面から聖子を見て、言った。


 「……はい。わかってます」


 聖子の目がわずかに細められる。

 その瞳には、満足げな光が灯っていた。


 「いい子ね」


 その一言が、あかりの身体の奥に波紋のように広がった。


 「ねえ、あかり」


 「……はい」


 「緊張してる?」


 「……少し、です」


 嘘だった。本当は、少しどころではない。

 けれど、それ以外に言いようがなかった。

 聖子はふっと笑う。

 その笑顔は、どこか母性的で――そして、やはり「何かを知っている人」の笑みだった。


 「役者ってね、演じるだけじゃないのよ」


 聖子がぽつりと口を開いた。


 「誰かになりきるには、まず自分自身を壊さなきゃいけないの。今の自分の価値観や恥じらい、固定観念――そういうものを一度、すべて捨てなければ、本当の演技には辿り着けない」


 その言葉はまるで、舞台で語るモノローグのようだった。


 「じゃあ……今から私がすることも?」


 「そう。これは演技のレッスン」


 あかりは頷いた。


 「……はい」


 その声は小さかったが、確かだった。

 聖子は身を乗り出し、あかりの頬にそっと手を添えた。

 その指先はひんやりとしていて、しかしどこか熱を帯びていた。


 「なら、まずは心を裸にしましょう」


 あかりの喉が再び鳴った。

 演じることの先に、何が待っているのか。

 それを知るために、この夜の扉が今、ゆっくりと開こうとしていた。


 「大丈夫。あなたは、役者なんだから。何をしても、それは演技だと思えばいいのよ」


 あかりの心臓が、ひときわ大きく鳴った。

 それは逃げ道だった。

 同時に、覚悟を問う言葉でもあった。


 「さあ、レッスンをしましょうか」


 その声に導かれながら、あかりは、もう一度深く息を吸った。

 部屋の灯りが、ますます柔らかくなる。

 役者として――女性として――自分が何を演じ、何を失い、何を手に入れるのか。

 その答えは、今夜という舞台の上にあった。

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