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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第3章 天翔専門学校2年生
135/140

135:人生を差し出す覚悟

 海堂はゆっくりと呼吸を整えるように言葉を選んだ。


 「……でもね、鷹宮さん。私が一番大事だと思うのは――覚悟よ」


 あかりは、静かに息を呑んだ。


 「どんなに実力があっても、どれだけ美しくても、誰かに応援されていても……。最後に舞台に立てるのは、それでも続けるって決めた人だけなの。たとえ傷ついても、嫉妬されても、悔しい思いをしても、そこで腐らずに、続けるって腹をくくった人だけが、トップになれる」


 あかりは、真っすぐに海堂を見つめていた。


 「あなたは今、まだ専門学校の二年生。才能はそれなりにあるし、容姿もまぁ比較的良い方で、瞳の奥に強い火がある。けれど、それだけじゃこの世界では足りない。これから先、あなたは何度も試されるわ。役が取れなくて泣いたり、誰かに追い抜かれて悔しかったり、理不尽なことも山ほどある。けれど、それでもやめないって決めた人間だけが、最後に笑えるの」


 海堂の瞳は、あかりを射抜くように鋭く、それでいてどこか優しかった。


 「覚悟っていうのは、才能を超える力よ。私はそれを、何度もこの目で見てきた。華やかにデビューして消えていった子も、何度も脇役を積み重ねてやっと主役になった子も、みんな……“続ける”という選択をしていた」


 あかりは小さく頷きながら、その言葉を胸に刻んでいた。


 「それにね、鷹宮さん」


 海堂はふと表情を緩めた。


 「あなたは“トップになりたい”って言ったけど、トップスターって何だと思う?」


 あかりは少し戸惑いながらも、慎重に答えた。


 「……一番目立つ人。舞台の中心にいる人……ですか?」


 海堂は笑った。


 「間違ってはいないけど、それだけじゃ足りないわね。トップスターっていうのは、“組を背負う顔”なの。舞台上だけじゃなく、観客にも、スタッフにも、後輩にも、外部のスポンサーにも、『この人こそ天翔歌劇団だ』と思わせる存在。その責任は重いわよ。どんなにしんどくても笑顔でいなきゃいけないし、後輩たちの見本でいなきゃいけない。舞台を降りてもトップスターは、トップスターであり続けなきゃいけないの」


 海堂は、ふうっと息を吐いた。


 「だから、トップになるって簡単に言うけど……それは、“人生を差し出す覚悟”が必要なのよ」


 その言葉に、あかりの肩が小さく震えた。

 だが、彼女の目は曇っていなかった。むしろその奥で、何かがはっきりと形を成したような、強い意志の光が灯っていた。

 海堂はその表情を見て、小さく微笑んだ。


 「それでも目指したいなら、私は応援する。だけど、本気じゃない子には、この世界は容赦ないわよ」


 あかりは真っすぐに海堂を見つめ、深く頷いた。


 「……はい。私、覚悟を決めてきました」


 その声には、震えはなかった。

 すると海堂は満足げに目を細め、最後にこう付け加えた。


 「いい返事ね。じゃあ、あなたのその覚悟――舞台の上で見せてもらうのを、楽しみにしてるわ」


 静かな教室に、風が吹き抜けるような静けさが広がる。けれど、あかりの胸の中には、確かに火が灯っていた。それはただの情熱ではなく、舞台人として生きるという、深い決意だった。

 あかりは静かに立ち上がった。


 「今日は……ありがとうございました」


 深く頭を下げると、海堂はうっすらと目を開け、ほんのわずかに微笑んだ。


 「あなたみたいな生徒、嫌いじゃないわ。せいぜい、もがいてもがいて這い上がりなさい」


 その声はまるで、奈落から照明に向かって這い上がる若き役者に向けた、冷たくも確かなエールのようだった。

 あかりはもう一度、丁寧に一礼し、そっと東屋を後にした。

 古都の夜は、まだ静けさを保っていた。

 足元を照らす灯籠の淡い光が、濃い緑と薄闇の間を漂っている。

 振り返ると、海堂は再び目を閉じ、夜の世界に耳を澄ましているようだった。

 まるで夜そのものの気配を聴き取ろうとするように、呼吸すら穏やかで、あかりにはその横顔が少しだけ寂しげにも見えた。


(……すごい人だ)

 

 自分が見ていた舞台の世界の、そのずっと奥にいた人。

 その深さと厳しさと、そして底知れないリアリズム。

 それを垣間見た気がして、あかりの胸の中は、熱く、冷たかった。


**


 あかりは旅館の本館へと戻り、そこから自分たちの部屋の「桜の間」がある別館へと歩みを進める。

 時刻はもうすぐ消灯の時刻。

 足音を忍ばせながら、あかりは廊下を進んだ。

 部屋に戻ろうと角を曲がったときだった。


 「鷹宮」


 ふいにかけられた声に、心臓が跳ねた。

 その声の主は、演技の講師・如月玲奈だった。

 月明かりに照らされた廊下に、浴衣姿の玲奈が立っていた。

 かつて、天翔歌劇団で「伝説のトップスター」と呼ばれた男役。

 その佇まいは、今もなお人の視線を奪う存在感に満ちていた。


 「……かっこいい……」


 あかりは、思わず心の声を漏らしていた。

 玲奈はすこし口元をほころばせ、「ありがとう」とだけ、短く答えた。

 その笑みすら、どこか舞台上のように洗練されていた。


 「こんな時間に、どうしたの?」


 「……夜風に、当たっていました」


 あかりは、嘘ではない返答をそっと返した。

 玲奈は納得したように頷き、ふと宙を見上げた。


 「修学旅行が終われば、中間試験。そのあとすぐ文化祭ね」


 「はい……」


 「そして文化祭が終われば、卒業公演よ。こうしてのんびり夜風に当たれるのも、きっとあとわずか」


 玲奈は、まるで遠い記憶を懐かしむような口調で続けた。


 「束の間の学生生活。存分に楽しむのよ」


 それだけ言うと、玲奈はくるりと背を向け、すらりとした後ろ姿を闇に溶かすように歩き出した。

 浴衣の裾がさらりと揺れるたび、どこか切なさを含んだ余韻が、あかりの中に残った。


(卒業公演……まだまだ遠いようで、きっと、あっという間なんだろうな)


 玲奈の言葉が、胸に静かに染み渡っていく。

 あかりは静かに、そして確かに、未来を見つめながら、自分の部屋へと歩を進めた。

 自室の襖をそっと開けると、部屋の中ではすでに水瀬大河、神田麻琴、佐久間凪の三人が、それぞれ寝支度を整えていた。

 麻琴は小さな卓上鏡で髪を整えながら、凪は布団の上でストレッチをしている。大河は浴衣の帯を緩め、手際よく足袋を脱いでいた。


 「え? まだ二十二時だよ?もう寝るの?修学旅行の消灯時間なんて守らないもんでしょ?」


 あかりは思わず声を上げた。修学旅行の夜といえば、もっとにぎやかで賑わしいものだと思っていたからだ。

 すると大河が振り返りながら、「朝のお風呂が六時から九時だから、朝食前にどうしてもお風呂入りたいんだってさ」とあっさり言った。

 その隣で凪が笑いながら、「せっかくだから、朝風呂も入りたいでしょ?なんか、旅館のお風呂って特別な感じするし」と補足した。

 麻琴は小さくあくびをしてから、しっかりとした口調で言う。


 「だからもう寝るんだよ。枕投げも恋バナもなし。明日のために睡眠、大事」


 「え〜?枕投げも恋バナもしないの?修学旅行と言えば、夜更かしして恋バナして、枕投げで怒られて、それが思い出になるんじゃないの?」


 あかりが不満そうに言うと、麻琴は表情を崩さずに一言。


 「なし。したかったら他の部屋に行って来て。そのままその部屋で寝てくれたらいいよ」


 あかりは少しだけ口を尖らせながら、「そうなんだ……」とつぶやいた。そしてしばらく部屋の隅に座って、誰にも聞こえないような小さなため息をひとつつくと、荷物を開けて自分も寝る準備を始めた。

 ふと隣を見ると、凪がにこっと笑ってくれる。その表情に、あかりの肩の力が少しだけ抜けた。


 「……じゃあ、私ももう寝ようかな」


 そう呟いて、あかりは浴衣の紐を結び直し、掛け布団を広げた。

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