134:東屋での遭遇2
晩春の夜の音を聴き入ってる海堂の横顔を見つめながら、あかりは言葉を選ぶように口を開いた。
「音楽家の先生は、今までにたくさんのステージを観てこられたと思います。……オペラやミュージカルで主役をもらうには、歌唱力や演技力だけでは足りないのかな、と思って……」
海堂はあかりを一瞥し、涼やかな声で問い返した。
「それはどういう意味かしら?容姿が必要だということ?それとも……コネやお金が必要だと、そう言いたいの?」
あかりは戸惑いながらも、真剣な眼差しで答えた。
「ど……どちらもです」
しばらくの沈黙のあと、海堂はふっと笑い声を漏らした。
「ふふっ……すごいことを聞いてくるわね、あなたは」
その笑いには呆れでも怒りでもなく、どこか愉快そうな響きがあった。そして、海堂は正面からあかりを見つめた。
「あなたは、この天翔歌劇団でトップスターになりたいのよね?」
その問いに、あかりはまっすぐに頷いた。
「はい」
海堂は、湯気の向こうにある夜の闇へ視線を移し、少し考えるように間を置いたあと、穏やかな声で語り出した。
「主役を演じるにはもちろん、演技力や歌唱力は最低限必要。でも、それだけじゃ足りないのよね。容姿も、確かに必要。オペラの世界では、多少不格好でも声が素晴らしければ主役に立てる。だけど、この天翔歌劇団では……見た目が非常に重要視されるんじゃないかしら。」
あかりは静かに頷いた。美しさは舞台の「夢」の一部であり、それを演じる者にも、観客を夢の世界に誘う「絵姿」が求められることは、肌で感じていた。
海堂はさらに続けた。
「それからもうひとつ、演出家の意図を汲んで演じることができるかどうか。つまり、演出家の望む通りに表現できるかってことも重要なの。才能があっても、自己流に走るばかりでは、主役は任されないわ。」
その言葉には、舞台を見続けてきた者の実感がこもっていた。
海堂の唇は、なおもゆっくりと動き続ける。
「コネは、まあ、あるにこしたことはないわね」
あかりは息をのんだまま、先生の言葉を逃さぬように耳を澄ませた。
「ただ……コネは最初だけなんじゃないかしら?」
少し視線を逸らして窓の外を眺めるようにしてから、海堂は静かに続ける。
「仮にコネで役をもらえたとしてもね、実力がなければ次からは声がかからない。そんなに甘い世界じゃないのよ、あなたが考えているほどには」
その声には、現実の厳しさを誰よりも知っている者の冷静さと、後進へのささやかな情がにじんでいた。
「ただ──」
再びあかりのほうをまっすぐ見て、言葉に力を込める。
「演出家や大御所の先輩たちに気に入られるってことは、大事よ。とても、ね」
あかりは、ぐっと唇を引き結んだ。胸の奥で何かが揺れる。努力だけでは超えられない何かが、この世界にはある。そう気づいてはいたが、それを真正面から言われると、心のどこかがひりついた。
だが海堂は、さらに言葉を続ける。
「芸能の世界だから、もう分かっているとは思うけど……中には、体を売るようなことをする人もいるわ」
その言葉に、あかりの瞳がかすかに揺れた。
「でも、それは決して恥ずべきことじゃない」
はっきりと、海堂は言った。
「体を売って役を得たとしても、そこから本当に成功すれば──何の問題もない。そういう人は、実際にたくさんいるわよ。コネだろうが、体を売ろうが、あるいは、たまたま回ってきた代役だろうが……」
そして、海堂は語気を強めて言い切った。
「一度きりしかないチャンスを、ものにできるかどうか。それがすべてよ。だからこそ、あなたたちは日々の鍛錬を怠ってはいけないのよ」
その言葉は、重くもあり、どこかあかりの心を突き動かすものでもあった。
彼女は静かにうなずいた。理想だけでは生き残れない。けれど、理想を抱かずにこの世界を生きることも、きっとできない。あかりは、自分の足で立って、この舞台の頂点を目指したいと思った。
海堂は、少し身を乗り出すようにして、あかりを見つめた。
「あとはお金ね。主役をやる上で、お金は……とても重要ね」
その口調は、先ほどまでのような軽さを帯びたものではなかった。声には重みがあった。
あかりは小さくうなずく。真剣な表情で、目の前の教師の一言一句を逃すまいとするように。
「別に、演出家や舞台監督に賄賂を渡すとか、そういう話じゃないわよ?」
海堂は笑みを浮かべたが、その目は冗談ではなかった。
「でもね、舞台っていうのは、お金で光り輝く部分がたくさんあるの。衣装、大道具、小道具、照明の演出、オーケストラの規模……。そういうものにお金がかかるっていうのは、あなたも舞台を見てきてわかるでしょう?」
あかりは小さく「はい」と応える。
思い返せば、同じ演目でも、公演によってまるで雰囲気が違ったことがあった。華やかなものもあれば、どこか質素に感じた舞台もあった。それが単なる演出方針だと思っていたが――。
「例えば、天翔歌劇団でも、組やトップスターによって、舞台の豪華さが違うでしょ?」
海堂の口調はやや含みをもって続いた。
「あれは、単に演出の違いじゃないの。衣装が凝っていたり、セットが細部まで作り込まれていたりするのは――スポンサーの数や、その規模の違いによるものなのよ」
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あかりの胸に、現実の言葉がずしりとのしかかった。
「だからね、演技力や歌唱力があるに越したことはないけれど、自分にどれだけ支援してくれる人がいるか、それも重要なのよ。実際、自分が払えなくても、自分の活動に投資してくれる人がいれば、舞台はどんどん豪華になっていく」
あかりは小さく息を呑んだ。
「もちろん、何もかもが金次第だなんて言うつもりはないわ。才能や努力がなければ、どんなに着飾ってもすぐに限界がくる。だけどね――」
海堂は、ふと視線を少し遠くに向けるようにして言った。
「この世界は舞台で魅せる仕事。見た目のインパクトや華やかさが観客の印象を左右するの。現実的に、スポンサーの存在は、その人の舞台人生において大きな意味を持つのよ」
あかりは、まっすぐに海堂を見つめた。
現実の重さにたじろぎそうになる自分を押しとどめながら、心の奥でその言葉を受け止めていく。
――必要なのは、実力。
――でも、それだけではない。
――支えてくれる人、お金、スポンサー。
――舞台の華やかさを支えるものは、表に見えない“力”の存在。
そのすべてを理解した上で、それでもなお、あかりの胸には確かな想いが残っていた。
この世界で、生きていきたい――。
そう、強く思う。