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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第3章 天翔専門学校2年生
134/140

134:東屋での遭遇2

 晩春の夜の音を聴き入ってる海堂の横顔を見つめながら、あかりは言葉を選ぶように口を開いた。


 「音楽家の先生は、今までにたくさんのステージを観てこられたと思います。……オペラやミュージカルで主役をもらうには、歌唱力や演技力だけでは足りないのかな、と思って……」


 海堂はあかりを一瞥し、涼やかな声で問い返した。


 「それはどういう意味かしら?容姿が必要だということ?それとも……コネやお金が必要だと、そう言いたいの?」


 あかりは戸惑いながらも、真剣な眼差しで答えた。


 「ど……どちらもです」


 しばらくの沈黙のあと、海堂はふっと笑い声を漏らした。


 「ふふっ……すごいことを聞いてくるわね、あなたは」


 その笑いには呆れでも怒りでもなく、どこか愉快そうな響きがあった。そして、海堂は正面からあかりを見つめた。


 「あなたは、この天翔歌劇団でトップスターになりたいのよね?」


 その問いに、あかりはまっすぐに頷いた。


 「はい」


 海堂は、湯気の向こうにある夜の闇へ視線を移し、少し考えるように間を置いたあと、穏やかな声で語り出した。


 「主役を演じるにはもちろん、演技力や歌唱力は最低限必要。でも、それだけじゃ足りないのよね。容姿も、確かに必要。オペラの世界では、多少不格好でも声が素晴らしければ主役に立てる。だけど、この天翔歌劇団では……見た目が非常に重要視されるんじゃないかしら。」


 あかりは静かに頷いた。美しさは舞台の「夢」の一部であり、それを演じる者にも、観客を夢の世界に誘う「絵姿」が求められることは、肌で感じていた。

 海堂はさらに続けた。


 「それからもうひとつ、演出家の意図を汲んで演じることができるかどうか。つまり、演出家の望む通りに表現できるかってことも重要なの。才能があっても、自己流に走るばかりでは、主役は任されないわ。」


 その言葉には、舞台を見続けてきた者の実感がこもっていた。

 海堂の唇は、なおもゆっくりと動き続ける。


 「コネは、まあ、あるにこしたことはないわね」


 あかりは息をのんだまま、先生の言葉を逃さぬように耳を澄ませた。


 「ただ……コネは最初だけなんじゃないかしら?」


 少し視線を逸らして窓の外を眺めるようにしてから、海堂は静かに続ける。


 「仮にコネで役をもらえたとしてもね、実力がなければ次からは声がかからない。そんなに甘い世界じゃないのよ、あなたが考えているほどには」


 その声には、現実の厳しさを誰よりも知っている者の冷静さと、後進へのささやかな情がにじんでいた。


 「ただ──」


 再びあかりのほうをまっすぐ見て、言葉に力を込める。


 「演出家や大御所の先輩たちに気に入られるってことは、大事よ。とても、ね」


 あかりは、ぐっと唇を引き結んだ。胸の奥で何かが揺れる。努力だけでは超えられない何かが、この世界にはある。そう気づいてはいたが、それを真正面から言われると、心のどこかがひりついた。

 だが海堂は、さらに言葉を続ける。


 「芸能の世界だから、もう分かっているとは思うけど……中には、体を売るようなことをする人もいるわ」


 その言葉に、あかりの瞳がかすかに揺れた。


 「でも、それは決して恥ずべきことじゃない」


 はっきりと、海堂は言った。


 「体を売って役を得たとしても、そこから本当に成功すれば──何の問題もない。そういう人は、実際にたくさんいるわよ。コネだろうが、体を売ろうが、あるいは、たまたま回ってきた代役だろうが……」


 そして、海堂は語気を強めて言い切った。


 「一度きりしかないチャンスを、ものにできるかどうか。それがすべてよ。だからこそ、あなたたちは日々の鍛錬を怠ってはいけないのよ」


 その言葉は、重くもあり、どこかあかりの心を突き動かすものでもあった。

 彼女は静かにうなずいた。理想だけでは生き残れない。けれど、理想を抱かずにこの世界を生きることも、きっとできない。あかりは、自分の足で立って、この舞台の頂点を目指したいと思った。

 海堂は、少し身を乗り出すようにして、あかりを見つめた。


 「あとはお金ね。主役をやる上で、お金は……とても重要ね」


 その口調は、先ほどまでのような軽さを帯びたものではなかった。声には重みがあった。

 あかりは小さくうなずく。真剣な表情で、目の前の教師の一言一句を逃すまいとするように。


 「別に、演出家や舞台監督に賄賂を渡すとか、そういう話じゃないわよ?」


 海堂は笑みを浮かべたが、その目は冗談ではなかった。


 「でもね、舞台っていうのは、お金で光り輝く部分がたくさんあるの。衣装、大道具、小道具、照明の演出、オーケストラの規模……。そういうものにお金がかかるっていうのは、あなたも舞台を見てきてわかるでしょう?」


 あかりは小さく「はい」と応える。

 思い返せば、同じ演目でも、公演によってまるで雰囲気が違ったことがあった。華やかなものもあれば、どこか質素に感じた舞台もあった。それが単なる演出方針だと思っていたが――。


 「例えば、天翔歌劇団でも、組やトップスターによって、舞台の豪華さが違うでしょ?」


 海堂の口調はやや含みをもって続いた。


 「あれは、単に演出の違いじゃないの。衣装が凝っていたり、セットが細部まで作り込まれていたりするのは――スポンサーの数や、その規模の違いによるものなのよ」


 スポンサー……。

 あかりの胸に、現実の言葉がずしりとのしかかった。


 「だからね、演技力や歌唱力があるに越したことはないけれど、自分にどれだけ支援してくれる人がいるか、それも重要なのよ。実際、自分が払えなくても、自分の活動に投資してくれる人がいれば、舞台はどんどん豪華になっていく」


 あかりは小さく息を呑んだ。


 「もちろん、何もかもが金次第だなんて言うつもりはないわ。才能や努力がなければ、どんなに着飾ってもすぐに限界がくる。だけどね――」


 海堂は、ふと視線を少し遠くに向けるようにして言った。


 「この世界は舞台で魅せる仕事。見た目のインパクトや華やかさが観客の印象を左右するの。現実的に、スポンサーの存在は、その人の舞台人生において大きな意味を持つのよ」


 あかりは、まっすぐに海堂を見つめた。

 現実の重さにたじろぎそうになる自分を押しとどめながら、心の奥でその言葉を受け止めていく。


 ――必要なのは、実力。

 ――でも、それだけではない。

 ――支えてくれる人、お金、スポンサー。

 ――舞台の華やかさを支えるものは、表に見えない“力”の存在。


 そのすべてを理解した上で、それでもなお、あかりの胸には確かな想いが残っていた。

 この世界で、生きていきたい――。

 そう、強く思う。

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