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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第3章 天翔専門学校2年生
133/140

133:東屋での遭遇

 浴衣の裾をひるがえしながら、あかりは旅館の廊下を静かに歩いていた。風呂上がりの火照った頬に、夜の風が心地よい。


「ちょっと、熱を冷ましてくるね」


 部屋の前でそう大河に告げて、あかりはひとり庭へと向かった。旅館の中庭には、四季折々の植栽と池、そしてその奥に、小さな東屋が佇んでいた。

 春の夜。空には雲ひとつなく、満天の星が天蓋のように広がっていた。虫の音が遠くからさざめき、竹林の間をぬって吹き抜ける風の音が、まるで琴線をなぞるように耳をくすぐる。

 あかりは東屋へと歩を進めた。頭を冷やし、少しひとりになって考えたかった。エリカの言葉が胸に引っかかっていたのだ。


 ――あなたのことを心配してる人がいることも、忘れないでね。


 気持ちを整理したい。ただ、それだけだった。

 だが東屋の中に足を踏み入れたその瞬間、思わぬ人物が目に入った。


 「……うわっ」


 思わず小さく声を漏らして、立ち止まる。そこにいたのは、あのソルフェージュの講師、海堂千歳だった。

 黒髪を一本に結い、艶やかな藤色の単衣をまとった彼女は、東屋の縁台に座り、じっと庭の方を眺めていた。蝋燭のような明かりに照らされた横顔は、昼間の厳しさとは別人のように静かで、どこか儚げだった。

 気まずさに、あかりはくるりと踵を返そうとする。

 だが、背後から柔らかく、しかし明瞭な声がかかった。


 「……なぜ帰るの?春の夜の音を聞きに来たんじゃないの?」


 その声に、あかりは思わず動きを止める。

 振り向くと、海堂はまっすぐにこちらを見つめていた。だがその瞳には、昼間の教壇で見せる冷徹さはない。ただ静かに、夜の静寂と一体になっているような眼差しだった。


 「……ええ、まあ」


 あかりは曖昧に返事をしつつも、内心ではまだ警戒していた。ソルフェージュの授業で、二度も廊下に立たされたことを、忘れられるわけがなかった。できれば避けて通りたい講師のひとりだ。

 だが、海堂は言葉を重ねることなく、視線だけであかりを促した。椅子に座るように――まるで、東屋においては誰もが平等であるかのように。

 しばし迷った末、あかりは足を進め、彼女の向かい側の木製のベンチに腰を下ろした。冷たい木の感触が、まだ熱を残す身体をじんわりと包む。

 沈黙が、ふたりの間を満たした。

 夜の庭の音が、その空白を埋めるように流れていく。どこからか聞こえるカエルの声、葉擦れの音、そして……遠くの町の灯が、かすかな明滅を繰り返していた。


 「ここはね、千年前から、こうして音が聞こえる場所なのよ」


 海堂がぽつりと呟いた。


 「風の音、虫の声、水の流れ。どれも昔から変わらず、この都の夜を包んできた。……演奏や歌がなくても、人の心に響く音楽って、こういうものだと思うの」


 あかりは、その言葉にどこか心を動かされた。今、自分が悩んでいること――それも、ある意味で音の問題だった。誰の声を聞くべきか。自分の内側の声に、どう耳を澄ませばいいのか。


 あかりと海堂の間に、沈黙が流れた。

 春の夜は静かで、かすかに虫の鳴き声が聞こえる。遠くで風が竹林をゆらし、その葉擦れの音が、まるで小さな旋律のように東屋を包んでいた。

 海堂千歳は目を閉じ、首をすこし傾けたまま、夜の音に耳を傾けている。その姿は、まるで音楽そのものを呼吸しているようだった。

 あかりは、少し視線を泳がせながら、黙って座っていた。最初は落ち着かない気持ちだったが、不思議と心が静まってくる。静寂が心地よく、余計な言葉を差し挟むことがはばかられた。

 やがて、あかりはぽつりと問いかけた。


 「先生……先生は舞台人じゃなくて、音楽家ですよね?」


 海堂は目を閉じたまま、うっすらと微笑む。


 「ええ、まぁそうね。私は舞台に立ったことはないわ。けれど、舞台の上で響く音は、ずっと聴いてきたつもりよ。」


 あかりは一度、唇をきゅっと結び、そしてゆっくりと言葉を紡いだ。


 「音楽家として……どんな人物が、天翔歌劇団の舞台でトップに立つにふさわしいと思いますか?」


 その問いに、海堂はゆっくりと目を開けた。

 そして、まっすぐにあかりを見つめた。

 その瞳は、まるで湖の底を覗き込むような深さがあった。鋭くもなく、ただ曇りひとつない静けさで、あかりの中を見透かすような眼差し。


 「ずいぶんと漠然とした問いね」と、海堂はまずそう言いました。


 「そうね……強い音を持つ人かしら」


 海堂は静かに答えた。


 「強い音……ですか?」


 「ええ。技術でも、容姿でもない。音よ。舞台の上に立ったとき、その人の存在から滲み出る、目に見えない振動……それが音になる。観客に何も語らずとも、その人が立っているだけで、空気が変わる。そういう音を持つ人だけが、舞台の頂点に立てるの」


 あかりは、その言葉を反芻するように心の中で繰り返した。


 「……強い、音……」


 「たとえば、あなたは最近、変化があったでしょう。以前は音が弱かった。薄くて頼りなくて、すぐ消えてしまう。でも、最近はようやく芯が見え始めてきた」


 あかりの心臓が小さく跳ねた。

 

 「なぜ……それがわかるんですか?」


 「私は音を聴くのが仕事よ。廊下に立たせた生徒の沈黙の音だって、ちゃんと聴いてるわ」


 海堂の唇が、いたずらっぽく笑んだ。

 あかりは、顔を赤らめてうつむいた。思い出すのは、廊下に立たされたときの気まずい記憶――でもその中にも、確かに何かを見ていた人がいたのだと知った。

 夜風が竹林を渡り、かすかな笛のような音を運んでいく。

 海堂は東屋の灯りの下であかりをじっと見つめ、続けた。


 「それと、音に愛される人かしら」


 あかりは少し意外そうに眉を動かした。


 「音に、愛される……?」


 「そう。音というのは、時に人の心に棲みつくもの。舞台に立つ者は、自分の感情を音にのせるのではなく、音が求めている感情を受け取らなければならないの。わかるかしら?」


 あかりは答えず、ただ黙って耳を傾ける。


 「私はね、舞台を音の家だと思っているの。台詞も、歌も、足音も、呼吸さえも音。観客の心に届くのは、そのすべてが一つになったとき。だから……トップに立つ者は、音を自分の都合で支配する者じゃなく、音の声に耳を澄まし、寄り添える者であってほしいの」


 海堂の言葉はゆっくりと、しかし重みをもってあかりの心に届いた。

 その言葉をきいたあかりは、意を決して海堂に尋ねた。


 「……じゃあ、私にも、トップに立てる可能性が……あると思いますか?」


 海堂はすぐに答えなかった。

 夜風がふわりと東屋を吹き抜け、木々の間から鈴虫の声がかすかに聞こえた。

 そして、静かに言った。


 「それを決めるのは、私ではなく、あなたの音よ」


 海堂の声には、確信のようなものがあった。


 「その音が、本物であり続けるなら――いつか、誰もが振り向く日が来る。けれど、偽りの音は、いずれ破綻する。たとえ一瞬、美しく響いても……続かない」


 あかりは、黙って頷いた。

 そして、静かに天を見上げた。

 春の夜空には、雲の切れ間から、星がいくつかのぞいていた。

 心の奥に、小さな音が鳴った気がした。誰にも聞こえない、自分だけの音。


 「あなたは、何かに揺れている。でも、その揺れがあなたを深くしている。焦らないことね。夜の音を聞いてごらんなさい。春の虫も、遠くの車の音も、誰かが歩く気配も、すべてが今という音を作っている」


 海堂は再び目を閉じ、風に身を委ねた。

 あかりも黙って目を閉じ、耳を澄ませる。

 遠くで水の流れる音、かすかに風に揺れる竹の葉の音、自分の鼓動さえも、夜の音の一部に感じられていった。

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