132:進む道を誤らない
大広間「鳳凰の間」での夕食が終わり、満腹と満足に包まれた生徒たちは、それぞれの夜の過ごし方へと散っていった。部屋へ戻る者、旅館内のプレイルームへと向かう者、談話スペースで語らう者──皆が思い思いの修学旅行の夜を楽しみはじめていた。
あかりも、部屋に戻るとすぐに引き出しから浴衣とバスタオルを取り出した。
「よし、ひとっ風呂浴びてこよう」と心の中で呟き、浴衣の袖をきちんと通す。
ちょうど荷物を整理していた大河が振り向いて言った。
「あかり、お風呂に行くの?それなら私も行く!」
そう言って軽やかに浴衣をひっかけ、あかりの後を追うように部屋を出た。
廊下の先、階段を下って左へ折れると、旅館の自慢と書かれた「大浴場・天の湯」の暖簾が見えた。入り口の木札には、今は女性用の時間と書かれている。
木の引き戸を開けて脱衣所に入ると、檜の香りがふわりと漂った。
ロッカーの数も多く、明るい照明に籐製の椅子、湯上がり用の冷水機まで揃っている。整然とした空間は、長旅の疲れを癒やしてくれるようなやさしさを感じさせた。
あかりと大河は、隣同士のロッカーで浴衣を脱ぎ、バスタオルを手にして浴場の扉を開く。
立ちのぼる湯気の向こうから、すでに誰かが湯船に浸かっている気配がした。
「あ、二人も入りに来たんだね」
湯船の一つで肩まで湯につかっていたのは、エリカと颯真だった。
大河がにこやかに声をかけると、エリカはゆったりとした笑みで頷いた。
「ええ、ここの露天風呂は素敵だって聞いたから」
颯真もちらりとあかりの方を見て、小さく手を上げる。
「あかり、こんばんは」
「こんばんは……」
あかりも返すが、どこかぎこちない笑みを浮かべた。
エリカと颯真の視線を避けるように、あかりは別の洗い場へと歩き、腰を下ろした。大河はその隣へ座り、明るい声で話しかける。
「このお風呂、すっごいね!内風呂が三つ、露天風呂が二つ、あとサウナに水風呂もあったよ!」
「うん、ほんとに豪華……」
湯桶に湯を張りながら、あかりは周囲を見回す。
内風呂はそれぞれ泉質が違うのか、湯の色が微妙に異なっていた。乳白色の炭酸泉、琥珀色の薬湯、そして透明な真湯──タイル張りの床には滑り止めが施され、天井も高く、圧迫感がない。
あかりは髪をほどいて、シャワーでじっくりと頭を洗い、ついで身体を丹念に洗い流した。さっぱりした感覚を味わいながら立ち上がり、タオルを肩にかけて、露天風呂へと向かった。
引き戸を開けると、外の空気がふわりと頬を撫でた。
そこには石造りの湯船がふたつあり、竹垣の向こうには小さな庭園が広がっていた。夜空には星が瞬き、風が木々を揺らしている。
あかりは足元に気をつけながら、奥の湯船へと静かに入っていった。湯に身を沈めた瞬間、ほうっと息がこぼれる。心まで解きほぐされていくような、温かな包容感。
露天風呂は、夜のしじまに包まれていた。
湯船の向こうには、手入れの行き届いた庭園が広がり、石灯籠がほのかに明かりをともしている。風に揺れる竹林の葉音、時折聞こえる水のせせらぎ。あかりは肩まで湯に浸かり、深く息をついた。湯気が夜空に溶けてゆくのを眺めながら、彼女の胸の内には、夕食後に庭で聖子と交わした会話の余韻が、まだくすぶっていた。
「……椿の間、か」
しばらく一人の時間を味わっていると、足音が石畳を打つ気配がした。
あかりがそっと目を向けると、湯気の向こうからエリカが歩いてきた。
「ここ、いいかしら?」
「……うん」
あかりは小さく頷いた。
エリカはあかりの隣には来ず、少し離れた位置に腰を下ろした。
二人の間を、湯の波と夜の風がそっと通り過ぎる。
沈黙は重くもなく、かといって心地よいわけでもなかった。
しかし、それはどこか舞台の幕間のような──次の台詞を待つ、緊張に似た時間だった。
「……いいお湯だね」
エリカはどこか機嫌がよさそうで、首をかしげながら言った。
「さっきの夕食のとき、なんだか考え込んでたでしょ。あなた、澪と目も合わせなかったし」
「え……そんなつもりは……」
あかりが言いかけると、エリカはふっと微笑み、星空を仰いだ。
「ま、いいけど。私も颯真も気づいてた。あなた、どこかに気を取られてるって」
あかりは返事ができず、手を湯の中で握りしめた。まさか、宝生先生のことだなんて――言えるはずもない。
あかりが黙っていると、エリカは続けた。
「私たちは、今、特別な時間の中にいるの。修学旅行って、子どもの行事に見えるけど、こういう場所でこそ、人の本音が見えたり、なにかが変わったりするのよ。前から聞こうと思ってたんだけど——」
静かに切り出すエリカの声が、湯に沈む心の奥を揺らす。
「1年生の途中から、あなたの演技、急に変わったよね。上達っていうより……深くなった。あれは、何があったの?」
あかりは一瞬、心臓が跳ねた。
ずっと言えずにいたこと。誰にも話していない夜のレッスンのこと。
澪に聞かれたときは、ただ笑ってごまかせた。でもエリカには、それが通じない気がした。
その瞳は真っ直ぐに自分を見ていた。ただの好奇心じゃない。確かにそこには、関心と——心配があった。
あかりは目を伏せた。
湯気の向こうに漂う桧の香りが、少し胸を締めつける。
「……いろいろあって。自分でも、なんか、変わったのかなって……思う。」
そう言うのが精一杯だった。
だがエリカはそれを聞き終える前から、もう次の問いを投げかけていた。
「時々、夜遅く寮に帰ってくるときがあるでしょ。あれって、何してたの?」
ぴたりと、核心を突く声。
一瞬、あかりは息を止めた。
「練習だよ」
それは事実だった。ただ、それ以上は、言えなかった。
エリカはすぐに反応を返さなかった。湯面を見つめたまま、少しだけ目を細め、言葉を選ぶように静かに言った。
「……あなたが誰とどんなレッスンをしようが、それがあなたのためになってるなら、私がとやかく言うつもりはないわ。だけど、進む道を誤らないでね。」
その言葉は、あかりの胸に深く沈んだ。
進む道——それは、この世界で生きるための覚悟。
そして、その道には光も影もあることを、彼女はもう知っていた。
「うん……」
それしか言えなかった。口に出した瞬間、唇が熱かった。
エリカは立ち上がった。夜風が肌を撫でる。
「あなたのことを、心配してる人がいるってことも、忘れないで」
そう言って、エリカはゆっくりと湯舟を出ていった。
その背中は美しかった。迷いも、嫉妬も、焦りも抱えながら、それでも前に進もうとする誰かの背中だった。
湯けむりの向こう、少し離れた場所では、颯真と大河が笑い声を立てながら話している声が聞こえてくる。女子風呂特有の緩やかな時間が流れ、そのなかに、あかりの胸の鼓動だけが小さく、速く打ち続けていた。
あかりは、静かに湯の中に肩まで沈めた。
月が雲間から顔を覗かせる。
——私のことを、心配してくれている人。
その言葉が、ずっと耳の奥に残った。
けれどそれと同時に、心のどこかで、まだあの言葉が反響していた。
「私の部屋は椿の間よ。私は一人部屋だから、遠慮はいらないわよ」
聖子の微笑みが、湯気の向こうに浮かび上がるようで、あかりはまた、心を静かに波立たせた。