表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第3章 天翔専門学校2年生
132/140

132:進む道を誤らない

 大広間「鳳凰の間」での夕食が終わり、満腹と満足に包まれた生徒たちは、それぞれの夜の過ごし方へと散っていった。部屋へ戻る者、旅館内のプレイルームへと向かう者、談話スペースで語らう者──皆が思い思いの修学旅行の夜を楽しみはじめていた。

 あかりも、部屋に戻るとすぐに引き出しから浴衣とバスタオルを取り出した。


 「よし、ひとっ風呂浴びてこよう」と心の中で呟き、浴衣の袖をきちんと通す。


 ちょうど荷物を整理していた大河が振り向いて言った。


 「あかり、お風呂に行くの?それなら私も行く!」


 そう言って軽やかに浴衣をひっかけ、あかりの後を追うように部屋を出た。

 廊下の先、階段を下って左へ折れると、旅館の自慢と書かれた「大浴場・天の湯」の暖簾が見えた。入り口の木札には、今は女性用の時間と書かれている。

 木の引き戸を開けて脱衣所に入ると、檜の香りがふわりと漂った。

 ロッカーの数も多く、明るい照明に籐製の椅子、湯上がり用の冷水機まで揃っている。整然とした空間は、長旅の疲れを癒やしてくれるようなやさしさを感じさせた。

 あかりと大河は、隣同士のロッカーで浴衣を脱ぎ、バスタオルを手にして浴場の扉を開く。

 立ちのぼる湯気の向こうから、すでに誰かが湯船に浸かっている気配がした。


 「あ、二人も入りに来たんだね」


 湯船の一つで肩まで湯につかっていたのは、エリカと颯真だった。

 大河がにこやかに声をかけると、エリカはゆったりとした笑みで頷いた。


 「ええ、ここの露天風呂は素敵だって聞いたから」


 颯真もちらりとあかりの方を見て、小さく手を上げる。


 「あかり、こんばんは」


 「こんばんは……」


 あかりも返すが、どこかぎこちない笑みを浮かべた。

 エリカと颯真の視線を避けるように、あかりは別の洗い場へと歩き、腰を下ろした。大河はその隣へ座り、明るい声で話しかける。


 「このお風呂、すっごいね!内風呂が三つ、露天風呂が二つ、あとサウナに水風呂もあったよ!」


 「うん、ほんとに豪華……」


 湯桶に湯を張りながら、あかりは周囲を見回す。

 内風呂はそれぞれ泉質が違うのか、湯の色が微妙に異なっていた。乳白色の炭酸泉、琥珀色の薬湯、そして透明な真湯──タイル張りの床には滑り止めが施され、天井も高く、圧迫感がない。

 あかりは髪をほどいて、シャワーでじっくりと頭を洗い、ついで身体を丹念に洗い流した。さっぱりした感覚を味わいながら立ち上がり、タオルを肩にかけて、露天風呂へと向かった。

 引き戸を開けると、外の空気がふわりと頬を撫でた。

 そこには石造りの湯船がふたつあり、竹垣の向こうには小さな庭園が広がっていた。夜空には星が瞬き、風が木々を揺らしている。

 あかりは足元に気をつけながら、奥の湯船へと静かに入っていった。湯に身を沈めた瞬間、ほうっと息がこぼれる。心まで解きほぐされていくような、温かな包容感。


 露天風呂は、夜のしじまに包まれていた。

 湯船の向こうには、手入れの行き届いた庭園が広がり、石灯籠がほのかに明かりをともしている。風に揺れる竹林の葉音、時折聞こえる水のせせらぎ。あかりは肩まで湯に浸かり、深く息をついた。湯気が夜空に溶けてゆくのを眺めながら、彼女の胸の内には、夕食後に庭で聖子と交わした会話の余韻が、まだくすぶっていた。


 「……椿の間、か」


 しばらく一人の時間を味わっていると、足音が石畳を打つ気配がした。

 あかりがそっと目を向けると、湯気の向こうからエリカが歩いてきた。


 「ここ、いいかしら?」


 「……うん」


 あかりは小さく頷いた。

 エリカはあかりの隣には来ず、少し離れた位置に腰を下ろした。

 二人の間を、湯の波と夜の風がそっと通り過ぎる。

 沈黙は重くもなく、かといって心地よいわけでもなかった。

 しかし、それはどこか舞台の幕間のような──次の台詞を待つ、緊張に似た時間だった。


 「……いいお湯だね」


 エリカはどこか機嫌がよさそうで、首をかしげながら言った。


 「さっきの夕食のとき、なんだか考え込んでたでしょ。あなた、澪と目も合わせなかったし」


 「え……そんなつもりは……」


 あかりが言いかけると、エリカはふっと微笑み、星空を仰いだ。

 

 「ま、いいけど。私も颯真も気づいてた。あなた、どこかに気を取られてるって」


 あかりは返事ができず、手を湯の中で握りしめた。まさか、宝生先生のことだなんて――言えるはずもない。

 あかりが黙っていると、エリカは続けた。


 「私たちは、今、特別な時間の中にいるの。修学旅行って、子どもの行事に見えるけど、こういう場所でこそ、人の本音が見えたり、なにかが変わったりするのよ。前から聞こうと思ってたんだけど——」


 静かに切り出すエリカの声が、湯に沈む心の奥を揺らす。


 「1年生の途中から、あなたの演技、急に変わったよね。上達っていうより……深くなった。あれは、何があったの?」


 あかりは一瞬、心臓が跳ねた。

 ずっと言えずにいたこと。誰にも話していない夜のレッスンのこと。

 澪に聞かれたときは、ただ笑ってごまかせた。でもエリカには、それが通じない気がした。

 その瞳は真っ直ぐに自分を見ていた。ただの好奇心じゃない。確かにそこには、関心と——心配があった。

 あかりは目を伏せた。

 湯気の向こうに漂う桧の香りが、少し胸を締めつける。


 「……いろいろあって。自分でも、なんか、変わったのかなって……思う。」


 そう言うのが精一杯だった。

 だがエリカはそれを聞き終える前から、もう次の問いを投げかけていた。


 「時々、夜遅く寮に帰ってくるときがあるでしょ。あれって、何してたの?」


 ぴたりと、核心を突く声。

 一瞬、あかりは息を止めた。


 「練習だよ」


 それは事実だった。ただ、それ以上は、言えなかった。

 エリカはすぐに反応を返さなかった。湯面を見つめたまま、少しだけ目を細め、言葉を選ぶように静かに言った。


 「……あなたが誰とどんなレッスンをしようが、それがあなたのためになってるなら、私がとやかく言うつもりはないわ。だけど、進む道を誤らないでね。」


 その言葉は、あかりの胸に深く沈んだ。

 進む道——それは、この世界で生きるための覚悟。

 そして、その道には光も影もあることを、彼女はもう知っていた。


 「うん……」


 それしか言えなかった。口に出した瞬間、唇が熱かった。

 エリカは立ち上がった。夜風が肌を撫でる。


 「あなたのことを、心配してる人がいるってことも、忘れないで」


 そう言って、エリカはゆっくりと湯舟を出ていった。

 その背中は美しかった。迷いも、嫉妬も、焦りも抱えながら、それでも前に進もうとする誰かの背中だった。

 湯けむりの向こう、少し離れた場所では、颯真と大河が笑い声を立てながら話している声が聞こえてくる。女子風呂特有の緩やかな時間が流れ、そのなかに、あかりの胸の鼓動だけが小さく、速く打ち続けていた。


 あかりは、静かに湯の中に肩まで沈めた。

 月が雲間から顔を覗かせる。

 ——私のことを、心配してくれている人。

 その言葉が、ずっと耳の奥に残った。

 けれどそれと同時に、心のどこかで、まだあの言葉が反響していた。


 「私の部屋は椿の間よ。私は一人部屋だから、遠慮はいらないわよ」


 聖子の微笑みが、湯気の向こうに浮かび上がるようで、あかりはまた、心を静かに波立たせた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ