131:聖子の待ち伏せ
旅館「花夕苑」の奥、重厚な朱塗りの扉が開くと、そこには名の通りの豪奢な空間が広がっていた。
天井から吊られた鳳凰の彫金灯が、ほのかに金色の光をたたえ、畳敷きの大広間には低く整然と並べられた座卓。白木の座椅子と、季節の花をあしらった箸袋。長く続くテーブルの上には、色とりどりの前菜がすでに並び、まるで小さな舞台のように彩られていた。
「あっ……すごい……」
「これ、食べていいの? 飾りじゃないの?」
「わたし、こういうの一度でいいから食べてみたかったの……!」
生徒たちは興奮気味に席に着きながら、目の前の御膳に見入っていた。
季節の八寸に、彩り鮮やかな手毬寿司、ふっくらと炊き上げられた筍ご飯に、陶器の蓋がされた小鍋からは白味噌仕立ての香り。脇には、湯葉のお刺身と京野菜の炊き合わせ──そのどれもが、京都の春の美を詰め込んだかのような一皿一皿だった。
「まさか旅館でこんな懐石みたいなの出てくるとは……贅沢だなあ」
大河が箸を持つ手を一瞬止めて言うと、隣の麻琴が笑って背中を軽く叩く。
「わかる。でもこれは燃料よ。明日も歩き回るんだから、今のうちに蓄えとこ!」
「わたし、この湯葉のお刺身……初めて食べた」
ひまりが感動したように瞳を潤ませると、さらがそっと頷いた。
「うん。京都って、味もやさしいよね。……鷹宮さん、どう?」
「うん、おいしい……本当に、全部、口に入れた瞬間に春って感じがする……」
あかりは、心からそう思った。味だけではなく、盛り付け、香り、器、光――すべてが舞台のようで、自然と背筋が伸びた。
ふと視線を上げると、少し離れた第4班のテーブルが見えた。そこでは、澪が静かにお椀を持ち上げていた。
目が合った瞬間、ふたりは同時に小さく笑った。
澪の隣にはゆらがいて、その向かいにはエリカと颯真。4人は落ち着いた空気の中で会話を交わしていたが、澪の表情の端に、わずかな寂しさが浮かんでいるように見えた。
(……一緒に食べたかったかな)
あかりは、ほんの少しだけ胸がきゅっとなるのを感じた。
けれどその感情も、ひまりの「あかり、これも美味しいよ!」という声でふっと消える。
「うん、ありがとう!」
あかりは笑顔で箸を伸ばした。
やがて一通りの食事を終え、デザートの抹茶と水菓子が配られるころ。
あかりはふと立ち上がった。
「ちょっと、トイレ行ってくるね」
「行ってらっしゃ〜い」
ひまりが手を振る。
あかりはそっと「鳳凰の間」を出て、薄暗い廊下を歩く。旅館特有の静けさが、足音を吸い込んでいく。
トイレから出ると、廊下の先に続く硝子戸の向こうに、庭園が見えた。
月明かりに照らされた庭石、飛び石、細く流れる水路。そして──その中央。
静かに、ひとり立つ人影があった。
朱色の羽織を肩に掛け、艶やかな黒髪が夜の風にそよいでいる。
光と影の狭間に、美しい横顔が浮かび上がった。
宝生聖子だった。
庭の奥に、まるで導かれるように。
あかりはゆっくりとガラス戸を開け、石畳に足を下ろした。
「……宝生先生。ここで何をしているんですか?」
声をかけると、聖子はゆるやかに振り返った。
その唇に浮かんだのは、どこか意味深な微笑だった。
「あなたを待っていたのよ、あかり」
あかりの背筋がすっと伸びる。
この一言が、冗談ではないと直感したからだ。
「……私を?」
戸惑いながら、返す言葉を探していると、聖子はそっと視線を庭に戻した。
「奈良、楽しかった?」
唐突な問いだった。
けれど、あかりは真面目に頷いた。
「はい。春日大社も東大寺も、本当にすごかったです。……千年以上も昔の人たちが作ったものが、今もこうして、人の心を動かしてるんだって……感動しました。私も……そんなふうに、人の心を動かす舞台人になりたいって、思いました」
沈黙が落ちた。
聖子はしばらく黙って、夜の水音に耳を澄ませているようだった。
そして、ふと小さく「そう」と言った。
その声には、柔らかさと冷たさが、ないまぜになっていた。
「……じゃあ今夜も、いつもの夜のレッスンをする?」
「え……ここで?」
思わず心の声がこぼれた。
庭の静けさが、一瞬張り詰める。
あかりは言葉を失い、答えを出せずにいた。
すると聖子は、ふっと笑った。
「私の部屋は、椿の間よ。……一人部屋だから、遠慮はいらないわ」
すべてを見透かすような瞳であかりを見てから、彼女は静かに背を向け、再び旅館の中へと歩き出した。
「……鳳凰の間に戻らなきゃ。あなたも、ね」
その背に、あかりはただ立ち尽くした。
夜の風が、庭の木々をわずかに揺らす。その音が、何かの始まりを告げているように聞こえた。
***
夕暮れどき、旅館の奥座敷「鳳凰の間」には、すでに灯りが入り、ほのかに橙色の光が障子を透かしていた。高い天井に描かれた鳳凰の絵が、燭の光でほんのりと舞い上がるように見え、広々とした和室全体を厳かでありながら温かな雰囲気に包んでいた。
畳の上には長い座卓が美しく並び、ひとりひとりの前には、目にも鮮やかな懐石料理が揃えられていた。朱塗りの器に盛られた八寸、竹籠に盛られた前菜、鯛の昆布締めや鴨のロース、季節の煮物、透明なガラス皿には水菓子が静かに輝いている。蒸し物から漂う柚子の香りと、焼き魚の香ばしい匂いが、空腹の生徒たちをいっそう賑やかにさせた。
「わあ、すごい……まるで舞台みたい……」
「お料理が芸術品だよ、これ……」
あかりは、班のメンバーたちと並んで座りながら、思わずそう呟いた。
2班のさら、ひまり、大河、麻琴たちは、目の前の料理に目を輝かせ、食べるたびに「おいしい!」「これ何の味?すごい香り!」と感嘆の声をあげていた。
「このお椀、湯葉がふわっとしてて、口に入れたら溶けたよ!」
「こっちのお刺身、甘い……京都って、すごいんだねえ……」
旅館ならではの丁寧なおもてなしと、まるで舞台美術のように整えられた空間に、あかりも思わず顔をほころばせた。さらは口に手を当てながら笑い、「このまま毎日ここに泊まりたい〜」と言って周囲の笑いを誘った。
そんな中、ふと、別の卓に目をやると――。
澪は別班の仲間たちと囲んでいた。エリカ、ゆら、颯真たちと並ぶその卓でも、華やかな笑い声が響いていた。
ゆらが落ち着いた所作で箸を運び、エリカが一口食べるたびに何かしら言葉を添えるのを、澪が楽しそうに相槌を打っていた。
だが、その澪の視線がふとあかりを捉えた。
あかりは一瞬笑顔を返しかけるが、すぐに視線を逸らした。箸を動かしながらも、どこか思案しているような、内にこもったような雰囲気が滲み出ていた。
(……あかり、さっきまで元気だったのに……何かあったの?)
澪は胸の奥が、ちくりと痛んだ気がした。あかりの変化に、誰よりも早く気づくのは自分でありたい――そんな思いが、自然と胸に浮かぶ。
その頃、あかりは一人、心の奥で迷っていた。
(この旅館での夜のレッスンは、きっといつもとは違う……)
豪華で幻想的なこの空間が、あかりの心に何かを問いかけてくる。
(先生の部屋に行ってしまえば、もう以前の自分には戻れないかもしれない)
椿の間――宝生聖子が言ったその言葉が、胸の奥に深く残っている。
――「私は一人部屋だから、遠慮はいらないわよ」
その妖艶な微笑みとともに残った言葉が、あかりの中に謎のざわめきを生んでいた。
怖いわけじゃない。けれど、何かが変わってしまう気がした。
それでも――。
(……私の中のどこかが、行きたいって思ってる)
誰よりも聖子に認められたい。誰よりも深く舞台の本質に触れたい。けれどその想いが、どこか危うい 境界線を越えていくような気もして――。
そのとき、「あかり、どうかした? 食べないの?」と、麻琴が声をかけた。
「あ、ごめん。ちょっと、考えごとしちゃってた」
「もったいないよ〜、こんなおいしいのに!」
さらやひまりも笑いながら話しかけてきて、あかりはぎこちなく笑顔を浮かべた。みんなとの会話に加わりながらも、その心はどこか遠く、椿の間の奥に向かおうとしていた。
澪は、その様子をそっと見守っていた。
そして、まだ誰も知らない夜の始まりが、静かに幕を開けようとしていた。