130:旅館『花夕苑』
東大寺の壮大な伽藍を背に、午後の斜陽が境内を柔らかく包み込む中、一行は再び観光バスへと戻ってきた。石畳の参道を歩きながら、誰もがそれぞれの思いを胸に抱えていた。
「2班、全員揃っています!」
「4班、確認しました!」
班ごとのリーダーたちが、点呼を終えて順に報告していく。さわやかな秋の風に、制服の裾がふわりと揺れ、どこか名残惜しそうに振り返る生徒もいた。
やがて、教務担当の麻生先生がマイクを取ると、バス車内に明るい声が響く。
「皆さん、お疲れ様でした。では、今から京都の旅館に向かって出発します」
その言葉とともに、観光バスのドアが閉まり、エンジンが静かに唸りを上げる。午後の陽射しを浴びながら、バスはゆっくりと走り出した。
窓の外には、秋色に染まった奈良の町並みが流れていく。古都の空気に触れた生徒たちは、どこかほっとしたように座席に身を預けていた。
車内では、今日の出来事が賑やかに語られていた。
「さっきの鹿、ほんとに追いかけてきたよね?」
「あの露店で買った団子、家族に見せたかったなあ」
「私、絵馬に『トップスターになれますように』って書いたんだ!」
あかりは笑いながら、隣のさらに話しかけた。
「ねえさら、今日一日、ほんとに楽しかったね」
「うん。特に、あかりが鹿に囲まれて『助けてー』って叫んでたの、忘れられないよ」
さらはくすくすと笑い、あかりと目を合わせた。
その光景を、少し離れた席から澪が見つめていた。無意識に、膝の上に置いた手に力が入る。
(私もあかりに話したいことたくさんある……)
そう思いながらも、澪はその視線を少しだけ逸らし、窓の外へと向けた。
そんな澪に気づいたエリカは、隣の席で言葉を探していた。
(何か、話しかけたい……でも、なんて言えばいいの)
その迷いの中、言葉は喉の奥で止まっていた。沈黙の気まずさを破ったのは、颯真の落ち着いた声だった。
「午後は、奈良公園と東大寺……とても贅沢な時間だったね。金剛力士像も大仏も、国宝にふさわしい迫力だった」
「うん……教科書で見てたけど、実物は全然違った……。こんなに圧倒されるものなんだね」
ゆらが頷きながら言うと、澪も少し微笑み、ようやくあかりから目を離して、4班の仲間たちに視線を向けた。
「……どれくらいの時間をかけて、あの大仏を造ったんだろう。見てるだけで、胸が熱くなる感じがした」
その言葉に、しばし沈黙が落ちる。やがて、誰かが小さく「そうだね」と返し、また話が弾み始める。
一方、車内の後方では、海堂の隣でひまりが相変わらずスマートフォンをいじっていた。グループの話題には入らず、時折画面をスワイプする指先だけが動いている。
前方の補助席では、教務の麻生が霧島教頭と並んで座っていた。霧島は時計をちらりと見て、穏やかな声で話しかける。
「少し出発が遅れましたね」
「そうですね。でも、行程には余裕を持たせていますから、おそらく予定通り夕食に間に合うと思います」
霧島は頷き、旅館のパンフレットを確認しながら呟く。
「夕食は六時半でしたね。道が混んでいなければ、ですが……」
麻生は微笑みながら、窓の外を見やった。黄金色の田園が広がり、ところどころに古い民家が点在している。日が傾き、風景は徐々に夕暮れの色へと染まっていった。
誰もが今日の思い出を胸に、京都という新たな舞台への期待を膨らませていた。
バスは、歴史と文化の香り漂う古都・京都へ向かって、静かに走り続けていた──。
***
奈良からの道のりを終えた観光バスが、ゆるやかに速度を落とし、朱色の瓦屋根が目印の旅館「花夕苑」へと滑り込む。夕暮れの陽光が、京都の町を柔らかく包み、旅館の外壁を金色に染めていた。
車内では、旅の疲れと高揚が入り混じったような静かなざわめきが流れている。
バスのマイクが、ぱちりと切り替わる音を立て、教務担当の麻生なずなの落ち着いた声が響いた。
「皆さん、お疲れさまでした。こちらが二泊お世話になる旅館『花夕苑』です。これから荷物を持ってロビーに集合してください。このバスには明後日まで乗りませんので、荷物は置いていかないように」
「はーい……」
生徒たちは眠たげに、あるいは目を輝かせて応えながら、ゆっくりと立ち上がる。バスのドアが開くと、外の空気がひんやりと肌を撫でた。夕方の京都は、どこか気高く澄んでいる。
トランクから次々と下ろされるキャリーケースやボストンバッグ。あかりは自分の赤いスーツケースを手にし、仲間と一緒に旅館のエントランスへと向かう。
「わあ……なにこれ、川?」
ロビーに足を踏み入れた瞬間、さらが目を見開いた。
「ほんとだ、屋内に小川が流れてる……」
澪の声は低く落ち着いていたが、その表情は珍しく驚きに満ちていた。
磨かれた板張りの床の向こう、ガラス張りの中庭には、小さな人工の渓流がゆるやかに流れていた。音もなく水が石の間を滑るように進み、光が反射して天井を照らしている。
「すご……なんか、高級旅館って感じ」
麻琴がぽつりと呟くと、大河が「麻琴はさっきまでシカに追われて転んでた奴とは思えん」と笑う。
生徒たちが思い思いにロビーの造りを見まわしていると、仲居さんたちが揃いの着物姿で現れ、丁寧なお辞儀をした。
「ようこそ、お越しくださいました。どうぞ、お疲れを癒やしていってくださいませ」
その笑顔に、あかりたちは一斉に頭を下げた。
麻生が手元の名簿を見ながら声を張る。
「ではこれから各班ごとに部屋の鍵を渡します。1つの班につき2部屋です。部屋に荷物を置いたら、夕食をいただく『鳳凰の間』に集合してください。リーダーは前に来てください」
「あかり、呼ばれてるよ」
ひまりが促すと、あかりはコクンと頷いた。
「はい、2班の鷹宮です」
カウンター前に立ち、あかりは真っ直ぐに麻生の目を見て言った。
「ありがとう。鍵はこれ。『桜の間』と『藤の間』ね」
麻生は少しだけ笑って、あかりの手にルームキーを2つ乗せる。
「はい、受け取りました」
あかりは一礼し、すぐに班のみんなの元へ戻った。
「2班は、『桜の間』と『藤の間』だって! まず荷物置いてから夕食だって」
「了解!」
「どっちが女子部屋かしら」
「え、もう女子って……全部女子なんだけどね……」
みんなで笑いながら荷物を引いて歩き出す。
あかりは前を歩きながら、ふと――なにか、視線を感じた。
気配は静かで、けれど鋭く、肌の内側をそっとなぞるような不思議な感覚。
……振り返る。
その目が、そこにあった。
ロビーの奥、宿の帳場に続く通路の脇。
そこに佇んでいたのは、宝生聖子。
彼女の視線は、迷いなく、あかりだけを見ていた。まっすぐに。まるで何かを試すように。
あかりは、軽く息を飲んだ。
けれどその視線はすぐにふっと外され、聖子は微笑みながら背を向けて歩き去った。
その微笑が何を意味するのか、あかりにはわからなかった。
「……どうしたの、鷹宮さん?」
さらの問いかけに、あかりは笑顔を作って首を横に振った。
「ううん。なんでもないよ。……さ、行こう!」
気を取り直すように、あかりはスーツケースを引き、部屋へと向かった。
けれど胸の奥では、先ほどの視線の余韻がまだ微かに残っていた。
それが、これから始まる試練の前触れだとは――この時のあかりは、まだ知らない。