13:決意の夜
食堂での夕食を終えた生徒たちは、それぞれの部屋へと戻っていった。寮の廊下には、洗い立てのリネンの匂いと、どこか石鹸の香りが混じって漂っている。
天翔専門学校の寮の建物は、まるで時間から切り離されたように静まり返っていた。 廊下の照明は淡く、蛍のように瞬く。誰かの足音も、風の音も、今はただ遠い。
202号室のカーテンが閉められた窓の外では、月が鈍く光っていた。
雲の切れ間から覗くその銀の円は、まるで舞台上のスポットライトのようにも見える。 室内にはまだ新しさの残る木の香りと、柔らかく漂うシャンプーの匂い。
その中に、ふたりだけの静かな時間が流れていた。
ベッドの上。
鷹宮あかねは体を横たえ、向かいのベッドにいる綾小路澪の背中を、静かに見つめていた。
澪は黒髪をほどき、ゆっくりとブラシを通している。
光に照らされる横顔は、まるで彫刻。 高く整った鼻筋と、長く繊細な睫毛の影が、彼女の表情に翳りを落としていた。
けれどその翳りこそが、彼女を他の誰よりも印象的にしていた。
美しい。けれど、それはただの美しさではない。
どこか、壊れやすく、そして近づけば焼けるような、刹那の美。
「ねえ、澪」
あかねは静かに呼んだ。
「……なに?」
澪の声もまた、夜の静寂に溶けるほどに柔らかい。
「今日、自己紹介ときさ……澪、すごく堂々としてて、綺麗で、完璧に見えた」
「……ふふ、見せかけだよ。中身はぜんぜん」
澪はブラシをベッド脇の棚に置き、あかねのほうへと視線を投げる。
その瞳の奥に浮かぶのは、夜の湖のような静けさと、誰にも触れられたくない深淵。
「私は……娘役になりたかった」
それは呟くような告白だった。
「……でも、身長がね。168センチもあるから。あの場に立って、講師の先生たちの目を見たとき、ああ、やっぱりって思った」
「やっぱり?」
「“ああ、この子は男役だね”って、そう言われるだろうなって……。わかってた。ずっと前から。だけど、それでも、少しは、もしかしたらって思ってた」
あかねは言葉を飲み込んだ。 何かを言いたいのに、適切な言葉が見つからなかった。
澪の唇がかすかに震える。
「娘役になりたかった理由、笑うかもしれないけど……」
「笑わないよ」
あかねはすぐに答えた。
「……小さい頃、ある舞台を観たの。“白薔薇の幻”って作品。娘役の人が、最後に白いドレスを着て倒れるの。それが、すごく、綺麗だったの」
あかねは目を見開いた。
「私も観た!テレビで。あのときの娘役って……」
「十条南の相手役だった、楠木花蓮」
「……そう、それ!」
ふたりの言葉が重なる。 一瞬、沈黙。そして、どちらからともなく笑いがこぼれた。
澪はふと、うつむいた。
そして、月の光の中で微かに瞬くその瞳には、別の光が宿っていた。 それは、あかねにはまだ見たことのない色。寂しさと、諦めと、けれど奥底で燃える決意の光だった。
「……でも、もう決めたの。男役として、やっていくって。逃げない。望んだ役じゃないかもしれないけど、きっと……あの場所に立てば、光は見つかるから」
「……澪」
あかねは小さく呟いた。
「私も……。私も、怖いんだ。今はまだ、夢の途中って感じだけど……。本当に舞台に立って、客席の光を見たとき、自分がその光に応えられるのかって思うと」
そのとき、澪が小さく笑った。
「ここにいる生徒たちはみんな、それぞれの夢を見てるんだね。でも同じ場所を目指してる」
「うん……。だったら、絶対一緒に同じ舞台に立とうよ」
ふたりは目を合わせる。
まるで暗い湖の底で、ふたつの光が出会ったかのように。
窓の外、月が雲間から覗いた。
部屋に銀の光が差し、澪の横顔をなぞるように照らす。
その顔は、やはりどこか哀しく、そして美しかった。
きっとこの先、彼女は多くの羨望を集め、そして同じくらいの孤独にさらされる。