129:東大寺
奈良公園でのひとときを終えたあかりたちは、班ごとに東大寺へと向かっていた。
午後の日差しは穏やかで、木漏れ日が参道に斑に落ちる。整備された石畳の道の先に、荘厳な佇まいの南大門がそびえていた。
「うわあ……大きい……」
門の前に立った瞬間、あかりが思わず声を上げた。
「ねえ、さら、あれ見て……」
あかりが指さした先には、左右に仁王立ちする巨大な金剛力士像――阿形像と吽形像。木造とは思えぬ圧倒的な存在感が、見る者を威圧する。
さらは目を見開いてうなずいた。
「すごい……本当に人間が作ったの?」
「千年以上も前に、こんな精巧で力強い像を……」
あかりは小さく息をのむ。
「なんだか、時代を超えて立っているって感じがするね……」
ひまりも感嘆の声を漏らす。
「すごい迫力。今にも動き出しそう」
「阿形が口を開けていて、吽形が口を閉じてるのよね。あ・うんの呼吸ってやつ」
知識を披露するように言ったのは神田麻琴だった。彼女は小さなノートを片手に、像を見上げている。
大河は金剛力士像をスマホで撮影しながら、「力強さの中に美しさがあるよね」とうなずいた。
「筋肉の彫りとか、影の入り方とか、まさに芸術だ」
南大門をくぐると、目の前に広がるのは広大な境内。奥には、東大寺の大仏殿――世界最大級の木造建築が静かに佇んでいる。
「すごい……こんなに大きいんだ……」あかりは思わず立ち止まり、息をのむ。
そのとき、4班の澪たちも境内に入ってきた。
「この建物の中に、あの大仏がいるのね……」
ゆらが澪に話しかける。
「うん。やっぱり迫力あるな。写真で見たのと全然ちがう」
澪もその光景に目を細めた。
颯真は小さなガイドブックをめくりながら、
「この大仏殿、何度も火災で焼けて、そのたびに再建されてるんだって。今の建物も江戸時代に再建されたものらしいよ」と説明する。
「ふぅん、昔の人たちの執念ってすごいわね」
エリカはさらりと言いながらも、その目にはどこか尊敬の色が浮かんでいた。
大仏殿の入口前まで歩くと、あかりはふと振り返って南大門の方を見やった。巨大な門と力士像が、まるでこの場所を守るかのように、どっしりと構えている。
「昔の人たちが、祈りや願いを込めてこういうものを作ったんだな……」
そう呟いたあかりの横で、さらが静かにうなずいた。
「千年たってもこうして残ってるのって、すごいことよね。私たちの舞台も、いつか誰かの記憶に残るものにしたいな」
その言葉に、あかりははっとする。自分たちがこれから創り上げていくもの――舞台、表現、歌、演技。それもまた、誰かの心に残り、時を越えて記憶されるものになるかもしれない。
「うん……そのために、頑張らなきゃね」
あかりとさらが微笑み合う一方で、少し離れた場所では、澪があかりの後ろ姿に目を留めていた。
心の奥でざわめく感情を抑えながら、澪は一歩、また一歩と大仏殿へと歩を進めた。
***
大仏殿の重厚な扉が開き、内部に一歩足を踏み入れた瞬間、ひんやりとした空気とともに、荘厳な気配が肌を撫でる。
「……っ!」
そのあまりの存在感に、あかりは思わず息をのんだ。見上げた先に鎮座していたのは、盧舎那仏、通称「奈良の大仏」。
高さ約15メートル。その黒褐色の体に金の光がわずかに残り、周囲の光を静かに吸い込んでいるようだった。
「あかり……見て。あの大仏さまの手。なんだか、こっちに語りかけてるみたいじゃない?」
さらが、あかりの腕をそっとつかみながら言った。
「ほんとだ……。怒ってるわけでも、笑ってるわけでもないのに、すごく優しい目をしてる……」
「うん。包み込むような表情……。なんか、あかりみたい」
「えっ!? わ、私が?」
さらは恥ずかしげもなく笑う。
「うん、誰かが困ってると、自然と手を伸ばして助けちゃうところ。そういうとこ、私……すごく好きだよ」
「あ、ありがとう、さら」
あかりは顔を赤らめながら、少しうつむいた。
その横顔を、さらはまっすぐ見つめていた。
「こんなに大きな仏さまを目の前にすると、自分の悩みなんてちっぽけに思えてくるよね」
「そうだね」
あかりがそっと微笑むと、さらは満足げに頷いた。
一方、大仏のやや後方では、澪とゆらが並んで見上げていた。
「……すごい。これが、人の手で作られたなんて……」
ゆらが呟いた。
澪も、腕を組んだまま頷く。
「圧倒的な存在感。だけど、不思議と怖くはないね」
「うん。どっしりしてるのに、どこか優しい……。仏さまって、安らぎの象徴なんだね」
しばらく無言で見上げたあと、澪が静かに言った。
「強いって、こういうことかもね。大声出したり、誰かを押しのけたりするんじゃなくて……そこにいるだけで安心できる、そんな強さ」
「……誰かさんに似てるね」
「え?」
「なんでもない。ふふっ」
ゆらは小さく笑って、大仏を見つめ直した。澪は一瞬、戸惑った顔を見せたが、すぐに目を細めて同じ方向を見つめた。
少し離れた場所、柱のそばではエリカと颯真が並んで立っていた。2人の間には言葉では語られない沈黙が流れている。
やがて、颯真が口を開いた。
「この大仏さまは、完成してから何度も火事や戦争で壊されて……そのたびに修復されて、こうしてまた立ってる。千年以上前の人たちが祈りを込めて作ったものが、今の私たちにまで届いてる」
颯真の横顔は静かだったが、目の奥に深い想いが宿っていた。
「この仏さまの表情、見て。何も語らないけど……確かに訴えかけてくるでしょ?」
エリカは黙って見つめた。荘厳な仏の顔は、静寂の中に揺るがぬ意志を宿している。
「悲しみも、怒りも、愛しさも、全部……言葉にしないからこそ、心に届く。残すって、きっとそういうこと」
「残す……」
「私たちが舞台に立つのも同じよ。私たちは言葉と動きで祈る人。誰かの心に、時を超えて何かが届くように……」
その言葉に、エリカは目を伏せて息を飲んだ。
「……颯真って、やっぱり他の人と着眼点が違うわね」
「そうでもないよ。ただ、舞台が好きなだけ。あなたも同じでしょ?」
「……ええ、そうね」
2人の視線が再び仏の顔へと向かう。時代を超えて残るもの、その意味が、胸の奥に静かに染みていく。
**
さらに奥に進むと、堂内の一角には、大仏の鼻の穴と同じ大きさと言われる穴の開いた柱があった。そこをくぐると願いが叶うということで、観光客たちが列を作っていた。
「これ、入れるかな……」と不安そうに言ったのはひまり。
「案外いけるって。チャレンジしてみなよ!」と、あかりが背中を押す。
ひまりが四つん這いになり、慎重にくぐっていく。途中で「わ、やばいかも……!」と叫ぶが、なんとか通り抜けた。
「やった〜!」
周囲から拍手が起こる。
あかりとさらも挑戦することになり、さらは先にスルリと通った。
「あかり、来て!」
「えええ……無理かも……」
「信じて。あかりなら絶対通れるよ」
さらの励ましに背を押され、あかりも思い切ってチャレンジ。狭さに一瞬ひるむが、集中して通り抜けることができた。
「……やった!」
「ほらね、言ったでしょ?」とさらが笑う。
一方、澪とゆらは列を少し離れて見ていた。
「……私はいいかな」と澪が言うと、
「澪なら一発で通れそうだけどな。ちょっと見てみたいかも」とゆらが微笑む。
澪は肩をすくめて、「舞台で体幹鍛えてるからね」と冗談めかして返す。
颯真とエリカはくぐりには興味を示さなかった。
颯真は言う。
「私は……願いは舞台の上で叶えるタイプだから」
「ふふ、らしいわね」
とエリカが静かに笑った。