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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第3章 天翔専門学校2年生
128/140

128:奈良公園

 春日大社の参拝を終えた二年生たちは、しばしの緊張から解き放たれたように、緩やかな笑顔を浮かべながら参道を歩いていた。夏を思わせる陽射しが、木々の葉を透かして柔らかな光を落とし、どこか夢のような昼下がり。鹿の鳴き声が遠くで響き、風に乗って漂ってくる樹々の香りと、土の匂いが入り混じって、古都・奈良らしい、どこか懐かしい空気が流れていた。

 参道沿いに佇む修学旅行生御用達の食事処に到着すると、生徒たちは班ごとに決められた座席へと自然に分かれていった。


 「わぁ、広い……」


 あかりは思わず声を漏らした。店内には、木のぬくもりが溢れる大広間。畳の上に並べられた低いテーブルが、どこか家庭的な安心感を醸し出している。開け放たれた障子窓の外では、赤い和傘の下に鹿が数頭、のんびりと草を食んでいた。


 「ここで食べるんだね。雰囲気、すてき……」


 さらが感嘆の声を上げた。その隣で、あかりはにっこりと頷いた。


 「うん。午後はいよいよ奈良公園だよ。シカ、いっぱいいるかな」


 「シカせんべい、あげられるといいね」


 さらの言葉に、あかりは思わず笑った。


 「でも追いかけられたりしないようにしなきゃね」


 「……ふふ。そうね」


 ふたりは、まるでふたりだけの小さな世界を共有するかのように笑い合い、目を細めた。

 それぞれの席には、色とりどりの仕出し弁当が配られていた。八角形の美しい箱の中には、奈良らしい旬の食材を使った料理が丁寧に詰められていた。焼き魚に卵焼き、炊き合わせ、小さな赤飯のおむすび。そしてデザートには、抹茶の水ようかんが添えられている。


 「わぁ……美味しそう!」


 さらが嬉しそうに箸を手に取り、あかりもまた、弁当の蓋を開けた。

 少し離れた席では、4班の生徒たちが同じように昼食を楽しんでいた。

 だが、その中でただひとり、澪はほとんど箸を動かせずにいた。


(……あかり)


 春日大社での参拝の時から、ずっと彼女の姿を目で追っていた。あかりが笑えば、心がざわつき、あかりがさらと話していれば、胸の奥に小さな棘が刺さるような痛みを感じた。


 「私も、同じ班がよかった……」


 思わず、心の中で呟いてしまう。けれどそれは、言っても仕方のないこと。修学旅行は、学年行事。あくまで公平に、班は成績と希望によって決められたのだ。

 澪の隣にいたエリカは、そんな澪の異変を敏感に察知していた。


(……また、あの子のこと考えてるんだ)


 何か言葉をかけようと、唇がかすかに動く。けれど、すぐにその動きを止めてしまった。気の利いた冗談も、慰めも、今の自分にはできそうにない。

 そんな重たい空気を和らげるかのように、颯真がいつもの調子で口を開いた。


 「午後は奈良公園と東大寺だね。南大門にある金剛力士像は、国宝にも指定されている建造物だから、きっと見ごたえがあると思うよ」


 「金剛力士像って、教科書に載ってたよね」


 ゆらが柔らかな声で応じた。


 「うん。迫力すごいって書いてあった」


 と、澪もぽつりと続けた。あかりから視線を逸らし、ようやく箸を動かし始める。

 エリカはほっと胸を撫でおろす。

 その時、澪の心の中に、ふと一つの思いが浮かんだ。


(あかりとさらが楽しそうで良かった。でも……私は……)


 その言葉の続きを、澪はまだ自分自身にさえ言えなかった。

 昼の光は、障子を通して淡く室内に差し込み、テーブルの上の料理や、窓の外の風景を、まるで絵巻物の一部のように照らし出していた。

 誰もが、心にそれぞれの想いを抱えながら、昼食の時間を過ごしていた。



***


 春日大社の厳かな空気から一転、午後の奈良公園はまるで別世界のように、陽光と笑い声に包まれていた。

 広々とした芝生の上をそよ風が渡り、光を浴びた木々がさざめく。観光客の声にまぎれて、どこからともなく鹿の鳴き声が聞こえてくる。


 「わぁーっ、いた、いた! あそこにも、あっちにも!」


 最初に声を上げたのは、もちろんあかりだった。目の前に集まってきた数頭の鹿に向かって、あかりは両手を広げ、まるで旧知の友人でも迎えるように駆け寄っていく。


 「これが……奈良のシカ……!」


 感嘆の声を上げながら、あかりは売店で買ったばかりの鹿せんべいを手に持ち、どれからあげようかと迷っている。そんなあかりの隣に、息を弾ませながら大河も現れた。


 「せんべいちょうだい! 一緒にやろうよ!」


 「うん、はいっ!」


 二人は並んで鹿にせんべいを差し出す。すると、すぐに数頭の鹿が近づいてきて、器用に口を伸ばしてせんべいをパクリと咥える。少し驚きつつも、嬉しそうに顔を見合わせてはしゃぐ二人。

 その様子を数歩後ろから見ていたひまりは、呆れたように肩をすくめた。


 「……あかりも大河も、子供みたいね」


 けれどもその口元には、どこか微笑ましさがにじんでいる。

 少し離れた場所では、神田麻琴があかりたちに近づいてきた。


 「そんなに楽しそうにしてると、私もやってみたくなるじゃない」


 あかりはぱっと振り返り、手にしていた鹿せんべいを1枚、麻琴に手渡した。


「これ、どうぞ!」


 「ありがと。……えっと、じゃあ――」

 

 麻琴が差し出した鹿せんべいを見つけた数頭の鹿たちが、敏感に反応する。次の瞬間、ぱたぱたと足音が鳴り響き、あっという間に麻琴の周りに鹿の群れが集まり始めた。


 「ちょ、ちょっと……ちょっと待って!? そんなに来ないで……わぁっ!!」


 鹿せんべいを高く掲げたまま、麻琴は思わず逃げ出した。鹿たちも、それを追って一斉に走り出す。


 「きゃーっ、なんで私だけこんなことにーっ!」


 あかりと大河はお腹を抱えて笑い、ひまりすらも思わず吹き出す。


 「麻琴、走ったら鹿が余計ついてくるよ」


 ひまりが遠くから声をかけるも、麻琴には届かない。彼女は芝生の中を必死に逃げながら、ついに観念して手にしていたせんべいを空中に放った。

 ヒラリと舞ったせんべいに群がる鹿たち。その隙に、麻琴はようやく解放され、息を切らしてあかりたちの元へ戻ってきた。


 「は、はぁ……もう……まったく……」


 「だ、大丈夫……?」


 あかりが笑いをこらえながら聞くと、麻琴は髪をかき上げてため息をついた。


 「まさか奈良公園で命の危険を感じるとは思わなかったわ……」


 その言葉に、周囲の生徒たちもどっと笑い声を上げた。

 午後の陽光が、木々の間から斑に差し込んでいる。風にそよぐ鹿の耳と尾。遠くで響く鐘の音。奈良の空気の中で、天翔の生徒たちは確かに、ひとつの思い出を刻み込んでいた。

 その穏やかなひとときの裏で、澪はそっと視線を横に流す。あかりの笑顔、大河の弾けるような声、麻琴の照れ笑い……その輪の中に入りきれない自分に、少しだけ胸がチクリと痛んだ。

 その澪の隣に、静かに立っていたのは紫堂エリカだった。


 「……鹿って、ほんとに人懐っこいのね」


 「……うん、そうだね」


 並んで風を感じながら、どちらからともなく歩き出す。

 陽は西に傾き、東大寺へ向かう道のりが、彼女たちをゆっくりと誘っていく。

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