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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第3章 天翔専門学校2年生
126/140

126:修学旅行1日目・バスの車内

 奈良へ向かうバスの中は、朝早くの出発だったにも関わらず、生徒たちの楽しげな声に満ちていた。

 第2班の座席列では、あかりが結城さらと肩を寄せ合い、小さな声で話しながら時折くすくすと笑っている。その様子が澪の視界の端に入るたび、心の奥がチクリと痛んだ。


 「……楽しそう、あかり……」


 ぽつりと心の中で呟いた澪は、すぐに目線をそらし、自分の横に座るエリカの方へと目を向けた。


 「ねえ、澪って、奈良に来るの初めて?」


 エリカが横から話しかけてきた。口調は軽やかだが、その目はどこか期待をはらんでいた。今日この隣の席が彼女にとって特別なのだということが、なんとなく澪にも伝わる。

 

 「あ、うん。ちゃんと観光するのは初めて。修学旅行らしいことって、中学のときはあんまり……」


 「そうなんだ?私は小学校のときに一度行ったけど、正直あんまり覚えてないの。鹿が近づいてきて、お弁当取られかけた記憶だけ、すごく鮮明で」


 エリカが笑いながら言うと、澪も少しだけ口元を緩めた。


 「鹿って、意外とがっついてくるんだよね。テレビでしか見たことないけど、あかりがせんべいあげるの楽しみだって」


 その名前が口をついて出た瞬間、澪はハッとして自分の言葉を飲み込んだ。


 「……でも、あかりは今回私たちとは別の班なのよね。あかり一緒じゃないとつまらない?」


 エリカがふと呟いた。その声は穏やかだったが、どこか棘が潜んでいるようにも感じられた。


 「いや……そんなことないよ。あかりはルームメイトだし、いつも一緒にいるから。なんとなく一緒にいるのが当たり前に感じてて……」


 曖昧に返す澪。エリカは微笑みながら澪を見つめていたが、その視線には何かを測るような鋭さがあった。


 「でも、澪ってあかりと一緒にいるときが一番自然体っていうか……私、ちょっと羨ましいかも」


 「え……?」


 「なんでもないよ」


 エリカはぱっと笑って、前方の車窓の景色へと視線を移した。流れていく高速道路、青い空、遠くに見え始めた山の影。その一瞬の空白が、澪には妙に長く感じられた。


(エリカと会話しているのに、どうしてあかりのことばかり気になるんだろう……)


 自分の胸の奥に、答えの出ない感情が溜まっていく。その正体を、澪はまだ言葉にすることができなかった。

 そして、そんな澪の横で、エリカは静かに拳を握っていた。


(綾小路澪が、少しでも私の方を向いてくれるなら……。この修学旅行中に、距離を縮めてみせる)


 車内は笑い声と音楽に包まれていたが、それぞれの胸の中では、まだ言葉にできない想いが静かに渦巻いていた。



***


 「……最悪」


 心の中で、ひまりは三文字を何度も反芻していた。

 修学旅行という言葉の響きに、少しだけ心が浮ついていた朝。制服の代わりに私服で登校し、キャリーケースをガラガラ引きながら友人たちと合流する——そんな想像をしていたのに、バスの座席表を見た瞬間、すべてが冷めた。


 「水城ひまり → 海堂千歳」


 ——なんでよりによって、海堂先生と隣。


 ソルフェージュの授業では音に厳しく、感情に冷たく、笑顔など一度も見たことがない。生徒からは陰で「氷の女王」などとあだ名される、近寄りがたい存在。

 ひまりは渋々と席に向かい、海堂の隣に腰を下ろした。横目でちらりと先生を見る。黒のパンツスーツに身を包み、長い脚を組み、トレードマークのサングラスをかけたまま窓の外を眺めている。声をかける隙など、どこにもなかった。


(何あのオーラ……絶対話しかけんなって言ってるじゃん……)


 ひまりは小さく溜め息をついた。後方の座席では、さらやあかり、ゆらたちが楽しそうにお菓子を回しながら笑い合っている声が聞こえてくる。


 「いいなぁ……」


 思わずひまりの口からこぼれた本音。けれど、ひまりの隣では、海堂が微動だにせず座っている。

 誰かと話したい。何か楽しい話をしたい。なのに、沈黙の壁が分厚く隣に座っていて、身動きひとつ取れない。


(はぁ……もういいや)


 バッグからスマホを取り出して、なんとなくSNSを開く。投稿されたばかりの、誰かのカフェランチの写真をただぼんやりと眺めた。

 けれど、すぐに目が重くなってくる。


(こんなんじゃテンション上がらないし……寝よ)


 スマホの画面を伏せると、ひまりは窓に頭を預け、目を閉じた。

 どこか遠くで、誰かの笑い声が弾んでいた。

 どこか近くで、静かな吐息が落ち着いたリズムで響いていた。

 ——そうして、時間が過ぎていった。



***


 春日大社近くの大型バス専用駐車場にバスが停車すると、生徒たちは次々とシートベルトを外し、準備を整えて立ち上がっていった。


 「到着しました。班ごとに点呼を済ませて、春日大社まで歩いて向かってください」


 マイク越しに教務の麻生なずなの指示が飛ぶと、バスの中にはざわめきと高揚感が満ちていく。

 ひまりも眠気を引きずったまま重い腰を上げ、ため息まじりにバスを降りた。太陽は高く昇っており、奈良の空気はまだ朝の澄んだ清々しさを残している。


 「……ふぅ」


 ひまりは小さくため息をつきながら、自分の班、第2班の集合場所へと歩いていった。そこで彼女を出迎えたのは、相変わらず人懐っこい笑顔を浮かべた水瀬大河だった。


 「おかえり。で? 海堂先生の隣はどうだった?」


 からかうようにニヤニヤと笑いながら、大河はひまりの顔を覗き込んだ。


 「最悪に決まってるでしょ……」


 ひまりはむくれたように答え、手で前髪をかき上げる。


 「まぁ、今日は我慢するしかないよね。明日と明後日はまた違う座席になるって言ってたし」


 あかりが優しく声をかけてくる。その表情には気遣いと、ほんの少しの同情の色が滲んでいた。

 ひまりはその言葉に少しだけ慰められたような気がしたが、大河がさらに畳みかけてきた。


 「ひまりって、やっぱり日ごろの行いが悪いからじゃないの? 神様、ちゃんと見てるんだよー」


 「うるさい!」


 ひまりは大河の肩を軽く叩きながら睨むが、その口元にはわずかな苦笑が浮かんでいた。

 周囲ではほかの班の生徒たちも整列を終え、春日大社へ向かって歩き出していた。澄んだ空気の中、緑の森が広がり、鳥のさえずりとともに奈良の時間が静かに流れている。


 「さ、行こうか」


 あかりが声をかけると、第2班の面々はゆるやかに歩を進めた。

 ひまりは背後をふと振り返り、バスの窓越しに海堂千歳の姿を探したが、もうその影は見えなかった。あの無表情なサングラスの奥に、何を見ていたのか。


 「……今日は絶対、鹿せんべいで癒されるんだから」


 そう小さくつぶやいて、ひまりは前を向いた。仲間たちとともに、春日大社の森の参道を歩き始める。

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