124:修学旅行前夜・それぞれの想い2
夜の帳が降りた講師棟は、静寂に包まれていた。遠くで草木を揺らす風の音と、時折響く時計の針の音だけが、時間の流れを告げていた。
四階、端の部屋。
如月玲奈は白のシルクパジャマに着替え、カーテンを少しだけ開けて窓辺に立っていた。柔らかな月明かりが、窓の外に広がる中庭の花壇をぼんやりと照らしている。
その視線は花壇のさらに向こう――学生寮の方角に向けられていた。
(明日は、修学旅行か……)
旅の前夜特有の、少し浮き立つような感情が玲奈にもないわけではなかった。
だが、彼女の胸中を占めているのは、それよりもずっと重たく、鋭く、理性的なものだった。
(私は、どの班を引率しても構わない……)
玲奈は心の中でそう繰り返す。
教員である以上、生徒の誰かを特別視することは避けねばならない。――それは彼女自身、トップスター時代に何度も見てきたことだった。可愛がられた生徒と、そうでない生徒。その差がどんな誤解と亀裂を生み出すか、よく知っている。
(だけど……聖子が鷹宮あかりの班の引率になった。そこがどうしても引っかかる)
花壇の向こうに見える寮の灯りの中に、あかりの姿があるわけではない。
けれど玲奈の意識は、確かに彼女へと向いていた。
宝生聖子――劇団時代からの旧知。虹組男役トップの自分と風組男役二番手の彼女は、互いに認め合いながらも、まったく別の感性で舞台を創っていた。
(聖子は……否定しているけど、今もあかりに特別なレッスンをしているんでしょう?)
夜遅くに講師棟を出ていくあかりの姿を何度も見かけている。
去年、素人同然だったあかりの演技力が急成長した理由も、最近、あかりに舞台人としての芯が生まれ始めている理由も、天性の素質だけでは説明がつかない。
(教える者の技術も、かなり洗練されている)
玲奈はそう感じていた。
だが、それが聖子自身の意志によるものなのか、あるいはもっと別の意図があるのか――判断がつかないのだ。
それだけではない。
玲奈は、海堂千歳の名前を思い浮かべて、眉をひそめた。
(そして……海堂千歳。あの新任講師も、どうにもつかみきれない)
口調は柔らかく、笑顔も絶やさない。だが、その目の奥には何か別の感情が潜んでいる――それが、玲奈の勘に触れる。
(たしか、千歳は言ってた。“鷹宮あかりが気になる”って。でも、どうして彼女を廊下に立たせるようなことをしたの?)
ただの教育ではない。それは直感としてわかる。
甘やかしと、試練――その境界線があまりに曖昧で、なおかつ狙いが不明瞭すぎるのだ。
玲奈は、窓の外に向けた手をぎゅっと握った。
美しい花壇の景色が、いまはどこか薄く、霞んで見える。
(聖子と言い、千歳と言い……何を考えているの?)
二人はそれぞれの分野のスペシャリスト。聖子は舞台人として、千歳は音楽家として、ステージの上で多くを知り尽くした人物だ。
だが今は、教育者という立場にいる――はずだった。
それなのに、ふたりともあかりに対して、過剰なほどに干渉しているように思える。
それは好意なのか、嫉妬なのか、あるいは何か別の感情なのか……。その全てが混ざり合って、玲奈の胸に不安を呼び起こしていた。
(……何事もなければいいんだけど)
呟くように口の中で言ったその言葉には、舞台に立ち続けてきた人間だけが持つ、鋭い予感が滲んでいた。如月玲奈の眼差しは、しばらくのあいだ花壇から動かなかった。
そして――
(……この修学旅行で、何かが起こる)
玲奈は静かに窓を閉めた。
月明かりがわずかに揺れて、やがて講師棟の一室に、重たい夜の静けさが戻っていった。
***
講師棟四階。階段を上ってすぐの静かな部屋に、イタリア語のアリアが流れていた。
マリア・カラスの声が、薄暗い部屋に優美に響く。窓は少し開けられていて、夏の名残を含んだ夜風が、カーテンをわずかに揺らしている。
机の上には旅行引率のしおり、参加者リスト、行程表、注意事項……。いずれも教員なら読んで当然の資料。しかし海堂千歳は、その束を前にして深くため息をついた。
「まったく……こんな高校教師の真似事をするために、ここへ来たわけじゃないのに。」
つぶやいた声は、ほとんど音楽に溶けていた。
彼女は椅子に深く座り、足を組む。その視線は机上の紙には向いておらず、窓の向こうの闇へと投げられていた。
「修学旅行……。この歳になって、そんなものに付き合う羽目になるとはね。」
不本意だった。はっきりそう思っていた。
かつてのヨーロッパ留学、コンクールでの受賞の数々、指導者としてのキャリア。どれも誇れるものだった。
それが今では、歌唱指導の時間も減らされ、一般教養の補助授業にまで駆り出される始末。
今回の修学旅行も、歌劇団志望の若者たちと京都観光だなどという、場違いな役割に割り当てられたことが、どうにも気に食わない。
「“郷に入れば郷に従え”……か。便利な言葉だわ」
皮肉気に笑い、グラスの水を口に含んだ。喉を湿らせるというよりは、苦味を洗い流すような仕草だった。だが同時に、ふと脳裏に浮かぶ名前があった。
――鷹宮あかり。
一度見れば忘れられない目をした少女。
感情に正直で、不器用で、だが確かな響きを持つ声。
――気になる、と言ったことがあった。たしか、如月玲奈の前で。
だがそれは、「可愛がっている」などという感情ではない。もっと冷静で、もっと本質的な興味だ。
彼女の才能が、まだ眠ったままであるということが惜しくもらい、もどかしくもあった。
「だからって、あの子を廊下に立たせたのか?」
自嘲気味に、自問する。
あれは、試したのだ。
反骨心の火種が残っているかどうか。教師の不興に屈する生徒なのか、それとも、磨けば本物になるのか――。
教科書通りの評価など、海堂の興味の範疇にはなかった。必要なのは、真に舞台に立てる者か否か、その一点だ。
「だが、あのままでは潰れるわね」
そんな直感もある。
宝生聖子があかりを特別レッスンしているという噂も、否応なく耳に入ってくる。聖子のレッスンが、果たしてあかりのためになっているのか……それも疑問だ。
「彼女は彼女のやり方がある。それは認める。……だけど――」
海堂はそこで言葉を切り、音楽を止めた。
静寂が部屋を満たす。虫の音だけが、遠くからかすかに聞こえる。
「いずれにしても、私は教師生活を楽しむためにここに来たわけじゃない。」
そう言いながら、海堂は資料を無造作に片付け、ベッドに腰を下ろした。
明日から三日間。心にもない笑顔で引率し、学生たちの浮かれた時間に付き合わなければならない。本音では、早く終わってほしいと願っていた。
だが――。
この修学旅行で、何かが起こる気がしてならなかった。
それが「良いこと」なのか「悪いこと」なのかは、まだわからない。
ただ、あの瞳をした少女と、それを囲む人間たちの関係が、静かに動き出している。
それだけは確かなことだった。
海堂は枕に頭を預け、まぶたを閉じた。
明日は早い。演技ではない無表情を、上手く仮面に変えられるだろうか。
音楽のない夜が、ゆっくりと更けていった。