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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第3章 天翔専門学校2年生
120/140

120:聖子の部屋3

 天翔学園の寮棟は静寂に包まれていた。廊下を一人歩く鷹宮あかりの足音だけが、夜の冷気に溶け込むように響く。

 前回のレッスンから数日後、またしても彼女は講師棟の最上階へ向かっていた。そこには、夜になると別の顔を見せる聖子の部屋がある。

 小さくノックをすると、すぐにドアが開いた。

 出迎えた聖子は、今夜も香り立つような黒のシフォンのブラウスに、細身のロングスカートという装いだった。わずかに濡れたような髪先が、あかりの心に波紋を広げる。


 「こんばんは、あかり。……入って」


 まるで待っていたかのような口調。聖子の微笑みは、どこか含みを帯びていて、あかりの胸に小さなざわめきを残す。

 部屋の中は、前回よりもさらに照明が落とされ、天井の間接照明とキャンドルの揺らぎだけが空間を照らしていた。その光の揺れが、まるで現実と夢の境界を曖昧にするようだ。

 部屋の中には、今日も優雅なクラシック音楽が流れていた。だが今回は前回よりも一層甘く、艶やかな旋律だ。まるであかりの心を揺らすように、弦の音が滴る。


 「今夜は、音程をもっと深く感じてもらうわ」


 そう言って、聖子はワイングラスのような細いグラスに、琥珀色の液体を注ぐ。中身は何かわからない。だが、そのしぐさだけで空気がぐっと濃くなる。


 「これはただのハーブティー。……飲んでもいいのよ?」


 「……ありがとうございます」


 あかりが受け取ると、聖子はにこりと微笑み、自分の分も注ぐ。まるで何かの儀式のように、グラスが触れ合い、カランと音を立てた。


 「さて、前回教えた耳は鍛えられたかしら?」


 「はい……でも、まだ不安です。授業ではみんなの進度についていけなくて……」


 あかりの声には焦燥が滲む。それを聖子は、ゆっくりとした動作で近づきながら聞く。


 「焦らなくていい。大切なのは、音を正しく聴くことじゃない。音が持つ意味を感じることよ」


 聖子はピアノの前に座ると、ある音程をぽんと弾いた。続けて、半音ずらしてもう一つ鳴らす。


 「今のふたつの音、どっちが切ないと感じた?」


 「……こっちの、低くなった方、です」


 「なぜ?」


 「なんだか、胸がきゅっとなったから……」


 「そう。それよ」


 聖子は満足げに微笑むと、あかりの前にしゃがみこみ、目線を合わせる。


 「音は言葉じゃない。でも、感情を伝えることができるの。トップスターが持つ説得力は、この感性がすべてよ。わたしはあなたに、それを教えてあげたいの」


 「……先生」


 あかりの胸の奥に、淡い火がともる。認めてもらえている。そう感じると、彼女の瞳は熱を帯びる。


 「じゃあ今夜は、声で音程を支配するレッスンをしましょう」


 そう言って、聖子はあかりの手を取り、自らの胸の上にそっと添える。


 「ここにあるのが、共鳴の震え。……自分の声がどう響くか、私の身体を通して感じて」


 聖子の柔らかい胸の感触があかりの思考を停止させる。


 「あ、あの……」


 「恥ずかしがらなくていいのよ。舞台では身体も楽器。あなたもいずれ、誰かに響かせる側になるのだから」


 言葉のひとつひとつが、滑らかに、しかし確実に、あかりの意識に染み込んでいく。

 その後も、聖子は音程ごとの情緒や、声の響かせ方を身体の動きと共に教えた。軽やかで華麗な指導。それでいて、どこか距離の近すぎるその触れ方。

 あかりの心は波立ちながらも、逃げることはできなかった。


 「あなたはね、本当に美しい音を持ってるわ。……あとはそれを意識して鳴らすだけ」


 「わたしの……音……?」


 「そう。あなた自身が、世界に一つしかない楽器なのよ。……誰にも代われない、あなたの音」


 その言葉が、なぜか胸の奥に響いた。

 自分は役に立たない。何もできない。そう思っていた自分に、何かが注ぎ込まれたような感覚。


 ――それが、罠の始まりだと、あかりはまだ知らない。


 夜が更けていく。

 その部屋の灯だけが、世界から切り離されたように、艶やかに揺れていた。


 「先生は、なぜ、私にここまでして下さるのですか?」


 あかりはまっすぐに聖子の目を見つめた。


 「ふふ。それはね、あかり……あなたは、私に似ているわ」


 ふいに、聖子の瞳が揺らいだ。


 「私も昔、孤独だった。けれど、それを糧に舞台で輝いた。――だから、あなたにも同じ道を歩んでほしいの。……でもね、あかり、忘れないで」


 彼女はそのままあかりの背後に回り、耳元で囁いた。


 「私なしでは光れないような身体に、ちゃんと育ててあげる。……それがレッスンよ」


 ゾクリとするような言葉。

 甘く、鋭く、逃れられない。

 聖子の手が、あかりの肩から背にかけてそっと添えられる。

 その感触は火傷のように、あかりの神経を焼いていった。


 言葉を失ったまま、あかりはただ静かに目を閉じた。

 月は雲間に隠れ、夜の帳が、深く、重く、二人を包み込んでいく――。

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