118:宝生聖子の誘い3
講師室の時計の針が静かに音を立てるなか、重たい沈黙がゆっくりと空間を支配していた。
玲奈と海堂のやり取りの直後、誰もが何か言いかけては言葉を飲み込み、無言で書類に目を落とすか、視線を宙に彷徨わせていた。霧島要も無表情に資料の整理を始め、藤代瑞月は静かに紅茶を注ぎなおしている。
その中で、ただ一人、宝生聖子だけが自分の思考に深く沈んでいた。
「……私のやり方で指導して構わないと、理事長から許可をいただいています」
先ほど海堂が口にしたこの言葉が、まるで刺さったままの針のように、彼女の頭の中で繰り返し響いていた。
(随分なことを言うものね)
紅茶のカップに指を添えながら、聖子は軽くため息をついた。
(確かに、入学式の日に理事長はそう言った。「天翔の歌唱力が落ちてきている」と――そして「それを底上げするために、実力のある講師を招聘した」と)
そのとき、なるほど、と一応の納得はした。海堂千歳の経歴は確かに申し分ない。欧州の音楽院で研鑽を積み、国内外の音楽劇団でボイストレーナーとして指導をしてきた実績は華々しい。技術があるのは間違いないし、生徒の基礎力を向上させるには確かにうってつけだ。
――だが。
(廊下に立たせる?)
彼女の脳裏に浮かんだのは、今日の昼下がり、玲奈が言っていた「あかりが廊下でノートを取っていた」という光景。
聖子はそっとカップを皿に戻し、目を閉じた。
(海堂千歳。着任して早々なのに、なかなか大胆なことをするものね)
けれど、海堂のこと以上に気がかりなのは、あかりの可能性だった。
(私の目に狂いはないわ。鷹宮あかり、あの子は、育て方次第で大きく花開く。私がかつて見た舞台の光を、あの子なら受け止められる。あの子には、私の理想を継がせる価値がある)
あの舞台に立ち、客席の視線を一身に集めたあの瞬間。輝きに包まれた男役スターとしての誇り――聖子はそれを次の世代に託すと決めていた。そしてその「器」として選んだのが、鷹宮あかりだった。
(私の舞台人としての理想を、育て上げたいのに)
計画はすべて台無しになる。
演技も舞も、すでに素地はある。問題は歌だけ――いや、声の自信だ。海堂はそこを無理やりこじ開けている。自信を与えるどころか、否定の針で穴を開けている。
(1年かけてやっと懐かせたのに……)
宝生聖子は、カップを静かに片付け、机の上にある名簿を指先でなぞった。そこには、今年の2年Aクラスの名簿が並んでいる。
「鷹宮あかり」の名前に触れると、その指先に自然と力が入った。
(どうすれば、私のものにできる……?)
玲奈の前では無関心を装ったが、心の中では火が灯っていた。
海堂千歳という強硬な外来者。彼女のやり方がまかり通るのは、理事長の後ろ盾があるからだ。だが、それは永遠ではない。成果が出なければ、理事長だって黙ってはいないだろう。
(理事長も結果を求めているなら――“私のやり方”であかりを輝かせてみせればいい)
それができれば、理事長にも海堂にも口出しはさせない。歌唱力が弱点であるなら、それを補うだけの演技力、表現力、舞台での存在感を叩き込めばいい。
(そう……声で勝てないなら、声以外で勝たせる)
そしてその舞台の輝きを理事長に、観客に、教師たちに見せつけてみせれば、誰も文句は言えない。
(そのためにも――あの子の心が折れる前に、手を打たなければ)
聖子は椅子から静かに立ち上がり、ふっと口元に笑みを浮かべた。
「さあ……どう料理してあげようかしら、鷹宮あかり」
まるで自分の舞台が始まる前のような、静かで張り詰めた緊張が、彼女の全身を包み込んでいた。
狙った獲物は、必ず自分の舞台に引きずり込む。それは彼女がかつて男役スターとして君臨していた頃と、何一つ変わらないように。
***
次の日の午後。
春の午後は陽がやわらかく沈みかける。
天翔音楽学校の中庭にある花壇の前のベンチに、あかりはひとり腰かけていた。足元にはまだ新しく植えられたばかりのパンジーやビオラが揺れている。静かな風があかりの髪を揺らし、ほんのり甘い花の香りが鼻をくすぐった。
ふと、その場に足音が近づいてくる。聞き覚えのあるハイヒールの音。
振り返ると、宝生聖子がゆったりとした足取りでこちらへやってきた。午後の日差しを浴びて、そのシルエットはまるでかつて舞台を彩った男役スターの風格を今なお残しているようだった。
「あら、こんなところで一人なの?」
聖子が優雅な微笑みを浮かべながら声をかける。
あかりは立ち上がり、慌てて一礼した。
「はい……ちょっと、気分転換に」
「そう。じゃあ、隣に座ってもいいかしら?」
「はい」
二人は並んでベンチに腰を下ろす。聖子は足を組み、空を仰ぐように視線を上げた。
「ねえ、あかり。2年生になってからの学校生活はどう?」
問いかけは軽やかだったが、その瞳には明確な意図があった。
あかりは少し間を置いて、真っ直ぐ前を見つめたまま答えた。
「今年が最後の一年なので、悔いのないように過ごしたいと思ってます」
聖子は満足そうに頷いた。
「そうね。来年には、あなたも大劇場の初舞台を踏むことになるのよね。ほんとうに……時間はあっと言う間だわ」
その声には、かつて自分が舞台に立っていた遠い日々を懐かしむような響きがあった。
そして、ふと表情を変えて、わざとらしいほどに自然な調子で訊いた。
「じゃあ、Aクラスでの授業も順調なのね?」
その言葉に、あかりの肩が少しだけすくむのを聖子は見逃さなかった。
やはり、狙いは的中した。
「……そうとも言えません」
小さく絞り出すようにあかりが言う。
「ソルフェージュの授業で、つまずいてしまっていて……このままだと、Bクラスに落ちるかもしれません」
その声には、隠しきれない不安と、自分自身への悔しさが滲んでいた。
聖子はまるでそれが初耳であるかのように、軽く眉をひそめる。
「まあ……何かあったのね?」
そう言いながら、そっとあかりの隣に身を寄せた。指先であかりの手を包み込むように握る。その動きには舞台の演出家のような計算された間と所作があった。
「あなたは、あなたなりにがんばってるのね。だけど、がんばるだけじゃ届かないこともあるの。天翔の舞台に立つって、それくらい厳しい世界だから」
耳もとで囁かれるような声に、あかりは一瞬だけ動きを止めた。
そして、聖子はそのまま、声をさらに落とし、まるで秘密を打ち明けるかのように言った。
「今夜……私の部屋に来なさい」
耳にかかる聖子の吐息が、春風とともにあかりの肌を撫でた。
その瞬間、あかりの身体がぴくりと小さく震えた。
胸の奥に、何ともいえないざわざわとしたものが湧き上がる。
だが、それでもあかりはゆっくりと頷いた。
「わ……わかりました」
聖子はその返事に満足げに目を細め、手をそっと離した。
風が花壇の上を通り抜けて、パンジーの花びらがわずかに揺れた。
春の日差しに包まれた花壇の前。ヒールの音を小さく鳴らしながら、聖子はベンチを離れ、白い花の咲き始めた石畳の小道をゆっくりと歩いていった。
立ち去る彼女の背中は、教壇に立つときよりも、舞台にいた頃よりも、ずっと大きく、そしてどこか得体の知れないものに見えた。
残されたあかりは、ただぽかんと座ったまま動けなかった。
さっきまで握られていた手の甲に、まだ聖子の体温が残っている。指先が妙に熱を帯びているような、ぞわぞわとした感覚が皮膚にまとわりついていた。
そして耳元には、まだ息の気配が残っている気がした。優しい言葉だったはずなのに、なぜか心のどこかにざわつきを生む。
「先生……」
声にならない問いを呟きながら、あかりはゆっくりと息を吐いた。
そのときになってようやく、聖子が言った最後の言葉を思い出す。
——「がんばるだけじゃ届かないこともあるのよ」
何かを暗示するような声音だった。優しさに包んでいたけれど、その内側にははっきりとした現実があった。
(届かない……努力だけじゃ……)
あかりは、ぎゅっとスカートの布地を握りしめた。
わかっている。ソルフェージュの授業で海堂先生が指摘したことは、どれも正しい。
音の高さ、拍の正確さ、視唱の技術。舞台に立つ者として、どれも欠かせない力だ。
なのに、今の自分はそれをものにできていない。ただ一人、何度もミスを重ねて、授業の場から追い出される始末。
(このままじゃ、Aクラスにいられなくなる……)
海堂の目は鋭い。その視線の奥に、なにか感情があるようでいて、それが怒りなのか失望なのか、未だにわからない。ただ、あの目が自分をじっと見つめたとき、身体が萎縮して、声すらうまく出なくなるのだ。
(がんばるだけじゃ足りない……なら、どうすれば……)
必死にノートをとっても、時間をかけて自主練しても、誰よりも努力しているつもりでも、「上手くなる」という実感は遠い。努力して、泣いて、悔しがって、それでも届かない場所があるとしたら——
「先生はなにを、見てるんだろう……」
聖子の瞳に映る自分。玲奈の言葉に触発されて動き始めた心。そして今の、このよくわからない感情。
胸の奥で、なにかがもやもやと絡まり、かすかに痛み出していた。
けれどそれは、きっと逃げてはいけない感覚だ。
あかりはゆっくりと目を閉じ、そっと自分の胸に問いかけた。
自分は、どうしたいのか、どうなりたいのか、と。
ほんの少しの間のあと、目を開いたあかりの瞳は、迷いながらも真っすぐだった。
(夜……行こう。先生の部屋に)
それが答えになるのかどうかは、まだわからない。
けれど、あの言葉の意味を確かめるためにも——。
あかりはベンチから立ち上がり、少し伸びをした。
そして、夕暮れに染まり始めた校舎の方へ、歩き出した。