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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第3章 天翔専門学校2年生
117/140

117:私の生徒

 五月の連休開けのけだるさが残る教室。朝からの曇天が、生徒たちの緊張にさらに重たさを加えているようだった。

 ソルフェージュの四回目の授業。

 講師の海堂千歳が教室に入ってきた瞬間、空気がぴんと張りつめた。


 「今日は先週よりも厳しくいきます。なぜなら、私は皆さんを本物にしたいからです」


 そう言って微笑んだが、その目に笑みはなかった。

 生徒たちは皆、姿勢を正し、五線譜と鉛筆を手にした。


 「では、先週の復習を兼ねて、音程の視唱から始めましょう。鷹宮さん」


 この日の授業も、最初から、あかりだった。

 あかりは一瞬わずかに肩をすくめ、すぐに立ち上がる。


 「はい……」


 緊張で指先が震えている。脳裏には復習した旋律が駆け巡る。

 先週と同じように、少しでも間違えれば、また廊下に出されるかもしれない。


 「始めてください」


 (大丈夫。昨日、澪と復習した。きっとできる)


 あかりは深く息を吸い、歌い始めた。

 だが、最初の音程は合っていたものの、三小節目で一つ、音を外した。


 「止めて。三小節目、長三度を半音下げたのはなぜですか?」


 「す、すみません……」


 「やり直してください。最初から」


 視線が一斉にあかりに集まる。

 ゆらが眉をひそめ、澪が手元の五線譜を握りしめた。


(大丈夫、もう一度……)


 あかりは再び歌い始めた。

 だが今度は、前回の三小節目はクリアしたものの、五小節目で拍の取り違い。タイミングがずれた。


 「止めなさい。そこ、拍がひとつずれていました。なぜ?」


 「……ごめんなさい、ちょっと混乱して……」


 「“混乱して”は理由ではありません。プロの舞台では“混乱した”時点でお客様は帰ってしまうんです」


 冷たい声だった。

 教室の空気がみるみる冷えた。


 「もう結構。廊下に立ってなさい。今のあなたには、この場にいる資格がない」


 その瞬間、ざわめきが走った。

 まさか、また――


 「え……はい……」


 あかりは唇を噛み、静かに楽譜を閉じて立ち上がった。

 前を向こうとしても、周囲の視線が突き刺さる。

 澪が立ち上がりかけるが、海堂が一瞥を送っただけで、その動きを封じた。

 廊下に出たあかりは、ドアの前の壁に背をもたせた。

 しばらく目を閉じて、熱くなった目頭を押さえた。


(どうして……どうして私だけ、こんなに……)


 だがすぐに、手帳と鉛筆を取り出した。

 ドア越しに聞こえる海堂の声を必死に拾い、ノートに記す。


 『視唱では音程とリズムを同時に意識すること。拍感は体に染み込ませること』

 『耳を鍛えるには他者の視唱を正しく聴き取る力も必要』

 『間違えてもいいが、“なぜ”を明確に説明できなければ次に進めない』


(……間違えないようにするだけじゃダメなんだ。自分の音を、自分の耳で聞いて、判断できなきゃ……)


 壁に寄りかかりながら、あかりは眉を寄せてノートに鉛筆を走らせる。

 先週も同じだった。悔しくて、でもただ立っているだけなんて我慢できなかった。


 「……なにをしてるの?」


 ふいに、背後から声がした。

 あかりはびくりと振り向いた。

 そこには、如月玲奈が立っていた。

 整った顔立ちに冷静な瞳。その姿に、一瞬で背筋が伸びる。


 「あっ……如月先生……」


 「どうして、こんなところでノートを……?」


 あかりは一瞬、言葉に詰まった。


(廊下に立たされたなんて、言いたくない。でも……)


 「……あの、廊下で、ソルフェージュの内容を……ノートにまとめていました」


 玲奈はその言葉に少し眉を動かした。

 彼女の瞳が一瞬、あかりの顔と手元のノートを往復する。


 「……そう。熱心ね」


 その声には、少しだけ含みがあった。

 玲奈は何かを言いかけたが、結局口を閉じた。


 「わかったわ。……がんばりなさい」


 そう言って、踵を返した。

 長い髪が揺れ、玲奈はそのまま廊下の奥へと歩いていった。

 あかりは小さく息を吐き、ノートを見つめた。

 手の震えは、もう止まっていた。


(私は……負けない。廊下でも、ここが教室になる。そう決めたんだから)


 そしてまた、ドアの向こうの海堂の声に耳を澄ませた。

 耳を、心を、音に向けながら、鉛筆を走らせ続けた。



***


 夕暮れの光が傾くころ、校舎の一階にある講師室には、今日の授業を終えた講師たちの気配がゆるやかに満ちていた。

 如月玲奈が扉を開けて入ってくると、室内にいた数名の講師たちは一瞬だけ視線を上げたが、すぐにそれぞれの作業に戻った。彼女は迷いなく、部屋の奥にいる一人の講師のもとへと歩み寄った。


 「海堂先生、少しよろしいですか?」


 机に向かって書類に目を通していた海堂千歳は、顔を上げると、ゆっくりと椅子にもたれた。その表情は無表情というよりは、何かを計るような冷静なものだった。


 「何かご用ですか、如月先生」


 「先ほど、校舎の廊下で鷹宮あかりを見かけました。ノートを取りながら立っていたのですが、あれは……」


 玲奈はあえて言葉を区切り、相手に選ばせるように問いを投げた。


 「――先生が、授業から追い出したのですか?」


 海堂はほんの少しだけ微笑んだようにも見えたが、それは感情というよりも、演技のような笑みだった。


 「ええ、そうですけど。何か問題でも?」


 玲奈の眉がぴくりと動いた。


 「問題がないとは思えません。生徒を廊下に立たせるなど、旧態依然とした指導ではありませんか? 特に、授業を受けられない状況を作るのは、教育の本質から外れていると思います」


 「なるほど……」


 海堂は椅子にもたれたまま、手元のペンをくるくると指で回した。


 「ですが、私は理事長から私のやり方で指導して構わないと許可をいただいています。特別講師として招かれている以上、ある程度の裁量は当然でしょう」


 その言葉に、玲奈は一瞬だけ言葉を失った。だがすぐに、まっすぐな目で海堂を見返す。


 「理事長が許可したとしても、生徒を教室の外に出すというのは看過できません。鷹宮さんは、真面目に授業を受けようとしています。ミスがあったとしても、それを正す機会を奪うべきではないはずです」


 その瞬間、講師室の扉が静かに開き、霧島要が入ってきた。彼は一通り室内を見回し、二人の緊張した空気を察すると、すぐにそちらに歩み寄った。


 「なにかトラブルですか?」


 玲奈が霧島の方を向いて軽く会釈する。


 「いえ、ただ……今日のソルフェージュの授業中に鷹宮あかりが廊下に立たされていた件について、少し話していました。以前にも同じようなことがあったようですし」


 霧島の表情がわずかに曇る。そして、海堂に視線を向けた。


 「海堂先生。いくら裁量があるとはいえ、生徒を廊下に出す、まして授業を受けさせないというのは、許されることではありませんよ。体罰とまでは言わなくとも、十分に問題行動です」


 海堂は肩をすくめ、平然とした声で言った。


 「私は暴力をふるったわけではありません。言葉での指導の範疇でしょう。感情的に怒鳴ったわけでもない。ただ、彼女には基本的な訓練が不足していた。何度注意しても改善されないので、冷静に退室を促したまでのことです」


 玲奈は鋭く言い返した。


 「退室という言い方をしても、実質は罰です。私の生徒をそのような形で扱うことは、納得できません」


 海堂の表情が微かに変わる。目の奥に何か陰が射したような、そんな表情。


 「……私の生徒ね」


 その言い回しに、玲奈は違和感を覚えた。だが海堂は続けなかった。むしろその言葉に何かを込めるように呟いただけだった。

 霧島が穏やかな声で言った。


 「海堂先生、ここは改めましょう。罰を与えるにしても、学校全体の方針に則って行うべきです。ご理解いただけますね?」


 海堂は黙って視線を霧島に投げ、そしてふっと鼻で笑ったように見えた。


 「わかりました。……今後は、方法を少し考えます」


 玲奈はその言葉を受けてもなお、不安を拭えなかった。海堂千歳のその瞳は、表面上の理解を示しながらも、内心には別の何かを隠しているような気配があったからだ。

 講師室の空気は静かに沈黙したまま、夕陽の色に包まれていった。

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