115:廊下で受る授業
4月後半の教室は、少し肌寒さの残る春の光を窓から浴びていた。
ソルフェージュの授業の4回目。整然と並んだ机と椅子の上には、生徒たちの手元に配られた小さな楽譜が置かれている。8小節の旋律が白い紙に細かく印刷されている。
前に立つ海堂千歳は、長い黒髪をきっちりとまとめ、落ち着いたグレーのスーツに身を包んでいた。彼女の目は鋭く、教室全体を見渡している。
「皆さん、こんにちは。今回のテーマは視唱、つまり譜面を初めて見る瞬間に、音を頭の中で正確に再生し、声に出して歌うことです」
静かな教室に、彼女の声が響き渡る。
「楽譜に書かれた音符は、ただの記号ではありません。ひとつひとつがあなたの声となり、舞台での表現となる。だからこそ、間違いは許されません。準備ができたら、順番に前に出て歌ってください」
そう言うと、海堂は生徒たちに楽譜を再度手渡し、短く待機の合図を出した。
最初に呼ばれたのは、橘颯真だった。颯真はゆっくりと楽譜を読み始め、すぐにその旋律を口ずさむ。
「♪ド ミ レ ド シ ラ ソ ファ ミ レ ド……」
声は落ち着いていて、ピッチも正確。リズムも乱れない。
海堂は一瞬微笑み、静かに頷いた。
「橘さん、いいわ」
教室の空気は緊張感を残しつつも、颯真の成功にわずかに和らいだ。
次に一ノ瀬ゆらが前に出た。ゆらは譜面をじっと見つめ、静かに深呼吸をしてから、歌い始める。音程は若干不安定だったが、持ち前の歌唱力で何とか乗り切った。
「一ノ瀬さん、あなたはあと一歩精度を上げてください」
海堂の言葉に、ゆらは神妙にうなずく。
そして、次々と生徒たちが挑戦していった。
そして、鷹宮あかりの番が来た。
教室の中は、あかりが立ち上がる音で一瞬静まり返った。彼女は深呼吸をし、胸元の楽譜をしっかりと握りしめる。
「鷹宮さん、どうぞ」
海堂の声は冷静で厳しい。
あかりは譜面を見つめ、心の中で音をなぞる。1拍目のドから始まり、3/4拍子のリズムを体に刻み込みながら、口を開く。
「♪ド ミ レ ド シ ラ ソ ファ ミ……」
最初の数小節はなんとかクリアできたが、5小節目で音程が少しずれる。リズムもわずかに早くなってしまった。
海堂は眉をひそめ、手を挙げて声をかける。
「鷹宮さん、そこで止めて。音程が違います。もう一度最初から歌ってください」
あかりはうつむき、静かに頷いて深呼吸をする。心の中は焦りでいっぱいだったが、表情は崩さずに再挑戦した。
「♪ド ミ レ ド シ ラ ソ ファ ミ……」
しかし、今度は違う箇所でリズムが崩れ、少し遅れてしまった。音程も微妙にずれている。
海堂は厳しい目であかりを見つめ、再び指示を出す。
「まだ正確ではありません。もう一度、最初から歌ってください」
教室内の他の生徒たちの視線が、一斉にあかりに注がれる。重い沈黙が流れ、あかりは額に汗をにじませながらも、覚悟を決めたように目を閉じて呼吸を整えた。
三度目の挑戦。
「♪ド ミ レ ド シ ラ ソ ファ ミ……」
今度は、また別の箇所で音程を外してしまった。はっきりとした間違いだった。
海堂は立ち上がり、厳しい声を教室に響かせる。
「もういい。鷹宮さん、あなたは廊下に立ってなさい」
その言葉は、教室に衝撃を与えた。
生徒たちは一瞬、ざわめき、囁き合う。誰もがあかりに視線を向ける。
「え……」
「まさか」
「どうして……」
あかりは扉の方を見つめながら、心が引き裂かれるような悔しさを感じていた。口元はぎゅっと引き締まり、胸が熱くなった。
「わかりました……」
あかりは精一杯の笑顔でそう言うと、静かに教室を出て行った。
ドアの開閉音が響き、ざわめきはさらに大きくなる。
海堂はそのざわめきを無視し、すぐに授業を再開する。
「次、綾小路さん。前に出て」
教室の外、廊下に立つあかりは、息を整えながらも涙をこらえていた。
悔しい気持ちと、情けなさが交錯する。だが、その胸の奥には、決して諦めない強い火が灯っていた。
彼女は手元のノートを取り出し、授業中に海堂が繰り返した言葉を書き留め始める。
「視唱は、単に音を歌うだけではない。音符の意味と拍の流れを頭の中で感じ取り、体で表現すること……」
廊下の隅に寄りかかり、あかりは鞄からノートを取り出した。
「海堂先生が言ったこと、聞き逃さないようにしなきゃ」
廊下の冷たい空気が肌を撫で、内側から燃え上がるような悔しさと戦う。
目の前が熱くなり、涙が出そうになるのを必死に堪えた。
自分はまだまだ未熟だ。何度も間違え、恥をかき、周囲に迷惑をかけてしまった。
けれど、ここで諦めるわけにはいかない。
この専門学校で、そしてこの舞台で、生き抜くためには、自分を変えなければならない。
心を落ち着け、耳を澄ます。
教室からは海堂の冷静で確かな声が聞こえてきた。
「楽譜の拍子をしっかり把握しないと、音程も乱れます。音楽は頭で理解し、身体で表現するものです。感覚だけに頼ってはいけません」
あかりはその言葉をノートに書き写す。
「理解しているつもりでも、やはり実践は違う。譜面を読んで、頭の中で音を正確に組み立てること」
ページにびっしりと文字が並び、彼女の手が止まらない。この瞬間、悔しさが覚悟に変わっていく。教室内のざわめきも、遠くの足音も、彼女の集中を乱すことはできなかった。
ふと、近くを通りかかったバレエ講師の神原真理子が、あかりの姿を見つける。
神原は眉をひそめて立ち止まった。
「鷹宮さんが廊下でノートを取っている……?」
一瞬の戸惑いを胸に、神原はあかりの様子をじっと観察する。
ノートに真剣に向かうあかりの横顔には、悔しさと覚悟が入り混じった独特の輝きがあった。
「彼女はなぜ、ここでこうしているのだろうか」
神原は疑問を抱きつつも、事情を詮索せず、その場を静かに後にした。
あかりは自分だけの時間の中で、ノートと向き合い続ける。
「間違えても、逃げずに立ち向かわなきゃ」
そう心の中で誓いながら。
***
バレエの授業を終えた神原真理子は、軽やかな足取りで講師室のドアを開けた。
午後の陽が傾き始め、窓から差し込む光が机の上の書類を金色に照らしている。
「お疲れ様です」
神原は柔らかく挨拶をしながら、自分の席へと向かう。そこには霧島要が、眼鏡の奥の瞳で資料を読んでいた。
藤代瑞月もまた、控えめに紅茶を口にしながら文献に目を通していた。
「霧島先生、少し……よろしいでしょうか?」
霧島は顔を上げる。
「ええ、どうされましたか?」
「今、3階の廊下で鷹宮あかりさんがノートを取りながら立っていたんです。どうやら、音楽理論の授業から外に出されたみたいで……」
霧島の手が止まった。
「外に……?」
「ええ。姿勢も態度も悪いものではなかったです。ただ……真剣な眼差しで、ずっと教室の中の声を聞いて、それを必死に書き留めているようでした」
「それは……」
霧島は言葉を探すように唇を噛み、少し眉をひそめた。
「まずいのでは?」
「私もそう思いました。廊下に立たせるというのは、昔ながらの指導法かもしれませんけど、今の時代には合わない気がして」
そこへ、藤代瑞月が椅子を引いて神原たちの会話に加わる。
「海堂先生の授業でしたのね?」
神原が頷く。
「体罰とまではいかなくても、授業を受けさせないというのは、あまりよろしくありませんわね」
藤代が紅茶の入ったカップを机に置き、首を横に振った。
「まだ基礎ができていない子たちですからね。つまずきやすいのも当然で……」と神原。
霧島は腕を組んだまま、低く考え込むように呟いた。
「如月先生は、いま2年のBクラスで授業中ですが……戻ってきたら一度相談してみましょうか」
「ええ、如月先生がこの件についてどう判断するか、伺ってみたほうがいいでしょうね」と藤代。
そのとき、講師室の隅で資料に目を通していた宝生聖子が、ちらりと一瞥をくれた。
だが彼女は何も言わず、視線をすぐに元の書類に戻した。
まるで、今の話題が自分には関係ないとでもいうように、聖子は静かに紅茶を一口すする。
(ふうん……あの子が、廊下で、ね)
その内心を表に出すことはなかったが、聖子の指先は微かに止まっていた。




