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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第3章 天翔専門学校2年生
115/140

115:廊下で受る授業

 4月後半の教室は、少し肌寒さの残る春の光を窓から浴びていた。

 ソルフェージュの授業の4回目。整然と並んだ机と椅子の上には、生徒たちの手元に配られた小さな楽譜が置かれている。8小節の旋律が白い紙に細かく印刷されている。

 前に立つ海堂千歳は、長い黒髪をきっちりとまとめ、落ち着いたグレーのスーツに身を包んでいた。彼女の目は鋭く、教室全体を見渡している。


 「皆さん、こんにちは。今回のテーマは視唱、つまり譜面を初めて見る瞬間に、音を頭の中で正確に再生し、声に出して歌うことです」


 静かな教室に、彼女の声が響き渡る。


 「楽譜に書かれた音符は、ただの記号ではありません。ひとつひとつがあなたの声となり、舞台での表現となる。だからこそ、間違いは許されません。準備ができたら、順番に前に出て歌ってください」


 そう言うと、海堂は生徒たちに楽譜を再度手渡し、短く待機の合図を出した。

 最初に呼ばれたのは、橘颯真だった。颯真はゆっくりと楽譜を読み始め、すぐにその旋律を口ずさむ。


 「♪ド ミ レ ド シ ラ ソ ファ ミ レ ド……」


 声は落ち着いていて、ピッチも正確。リズムも乱れない。

 海堂は一瞬微笑み、静かに頷いた。


 「橘さん、いいわ」


 教室の空気は緊張感を残しつつも、颯真の成功にわずかに和らいだ。

 次に一ノ瀬ゆらが前に出た。ゆらは譜面をじっと見つめ、静かに深呼吸をしてから、歌い始める。音程は若干不安定だったが、持ち前の歌唱力で何とか乗り切った。


 「一ノ瀬さん、あなたはあと一歩精度を上げてください」


 海堂の言葉に、ゆらは神妙にうなずく。

 そして、次々と生徒たちが挑戦していった。


 そして、鷹宮あかりの番が来た。

 教室の中は、あかりが立ち上がる音で一瞬静まり返った。彼女は深呼吸をし、胸元の楽譜をしっかりと握りしめる。


 「鷹宮さん、どうぞ」


 海堂の声は冷静で厳しい。

 あかりは譜面を見つめ、心の中で音をなぞる。1拍目のドから始まり、3/4拍子のリズムを体に刻み込みながら、口を開く。


 「♪ド ミ レ ド シ ラ ソ ファ ミ……」


 最初の数小節はなんとかクリアできたが、5小節目で音程が少しずれる。リズムもわずかに早くなってしまった。

 海堂は眉をひそめ、手を挙げて声をかける。


 「鷹宮さん、そこで止めて。音程が違います。もう一度最初から歌ってください」


 あかりはうつむき、静かに頷いて深呼吸をする。心の中は焦りでいっぱいだったが、表情は崩さずに再挑戦した。


 「♪ド ミ レ ド シ ラ ソ ファ ミ……」


 しかし、今度は違う箇所でリズムが崩れ、少し遅れてしまった。音程も微妙にずれている。

 海堂は厳しい目であかりを見つめ、再び指示を出す。


 「まだ正確ではありません。もう一度、最初から歌ってください」


 教室内の他の生徒たちの視線が、一斉にあかりに注がれる。重い沈黙が流れ、あかりは額に汗をにじませながらも、覚悟を決めたように目を閉じて呼吸を整えた。

 三度目の挑戦。


 「♪ド ミ レ ド シ ラ ソ ファ ミ……」


 今度は、また別の箇所で音程を外してしまった。はっきりとした間違いだった。

 海堂は立ち上がり、厳しい声を教室に響かせる。


 「もういい。鷹宮さん、あなたは廊下に立ってなさい」


 その言葉は、教室に衝撃を与えた。

 生徒たちは一瞬、ざわめき、囁き合う。誰もがあかりに視線を向ける。


 「え……」

 「まさか」

 「どうして……」


 あかりは扉の方を見つめながら、心が引き裂かれるような悔しさを感じていた。口元はぎゅっと引き締まり、胸が熱くなった。


 「わかりました……」


 あかりは精一杯の笑顔でそう言うと、静かに教室を出て行った。 

 ドアの開閉音が響き、ざわめきはさらに大きくなる。

 海堂はそのざわめきを無視し、すぐに授業を再開する。


 「次、綾小路さん。前に出て」


 教室の外、廊下に立つあかりは、息を整えながらも涙をこらえていた。

 悔しい気持ちと、情けなさが交錯する。だが、その胸の奥には、決して諦めない強い火が灯っていた。

 彼女は手元のノートを取り出し、授業中に海堂が繰り返した言葉を書き留め始める。


 「視唱は、単に音を歌うだけではない。音符の意味と拍の流れを頭の中で感じ取り、体で表現すること……」


 廊下の隅に寄りかかり、あかりは鞄からノートを取り出した。


 「海堂先生が言ったこと、聞き逃さないようにしなきゃ」


 廊下の冷たい空気が肌を撫で、内側から燃え上がるような悔しさと戦う。

 目の前が熱くなり、涙が出そうになるのを必死に堪えた。

 自分はまだまだ未熟だ。何度も間違え、恥をかき、周囲に迷惑をかけてしまった。

 けれど、ここで諦めるわけにはいかない。

 この専門学校で、そしてこの舞台で、生き抜くためには、自分を変えなければならない。

 心を落ち着け、耳を澄ます。

 教室からは海堂の冷静で確かな声が聞こえてきた。


 「楽譜の拍子をしっかり把握しないと、音程も乱れます。音楽は頭で理解し、身体で表現するものです。感覚だけに頼ってはいけません」


 あかりはその言葉をノートに書き写す。


 「理解しているつもりでも、やはり実践は違う。譜面を読んで、頭の中で音を正確に組み立てること」


 ページにびっしりと文字が並び、彼女の手が止まらない。この瞬間、悔しさが覚悟に変わっていく。教室内のざわめきも、遠くの足音も、彼女の集中を乱すことはできなかった。


 ふと、近くを通りかかったバレエ講師の神原真理子が、あかりの姿を見つける。

 神原は眉をひそめて立ち止まった。


 「鷹宮さんが廊下でノートを取っている……?」


 一瞬の戸惑いを胸に、神原はあかりの様子をじっと観察する。

 ノートに真剣に向かうあかりの横顔には、悔しさと覚悟が入り混じった独特の輝きがあった。


 「彼女はなぜ、ここでこうしているのだろうか」


 神原は疑問を抱きつつも、事情を詮索せず、その場を静かに後にした。

 あかりは自分だけの時間の中で、ノートと向き合い続ける。


 「間違えても、逃げずに立ち向かわなきゃ」


 そう心の中で誓いながら。



***


 バレエの授業を終えた神原真理子は、軽やかな足取りで講師室のドアを開けた。

 午後の陽が傾き始め、窓から差し込む光が机の上の書類を金色に照らしている。


 「お疲れ様です」


 神原は柔らかく挨拶をしながら、自分の席へと向かう。そこには霧島要が、眼鏡の奥の瞳で資料を読んでいた。

 藤代瑞月もまた、控えめに紅茶を口にしながら文献に目を通していた。


 「霧島先生、少し……よろしいでしょうか?」


 霧島は顔を上げる。


 「ええ、どうされましたか?」


 「今、3階の廊下で鷹宮あかりさんがノートを取りながら立っていたんです。どうやら、音楽理論の授業から外に出されたみたいで……」


 霧島の手が止まった。


 「外に……?」


 「ええ。姿勢も態度も悪いものではなかったです。ただ……真剣な眼差しで、ずっと教室の中の声を聞いて、それを必死に書き留めているようでした」


 「それは……」


 霧島は言葉を探すように唇を噛み、少し眉をひそめた。


 「まずいのでは?」


 「私もそう思いました。廊下に立たせるというのは、昔ながらの指導法かもしれませんけど、今の時代には合わない気がして」


 そこへ、藤代瑞月が椅子を引いて神原たちの会話に加わる。


 「海堂先生の授業でしたのね?」


 神原が頷く。


 「体罰とまではいかなくても、授業を受けさせないというのは、あまりよろしくありませんわね」


 藤代が紅茶の入ったカップを机に置き、首を横に振った。


 「まだ基礎ができていない子たちですからね。つまずきやすいのも当然で……」と神原。


 霧島は腕を組んだまま、低く考え込むように呟いた。


 「如月先生は、いま2年のBクラスで授業中ですが……戻ってきたら一度相談してみましょうか」


 「ええ、如月先生がこの件についてどう判断するか、伺ってみたほうがいいでしょうね」と藤代。


 そのとき、講師室の隅で資料に目を通していた宝生聖子が、ちらりと一瞥をくれた。

 だが彼女は何も言わず、視線をすぐに元の書類に戻した。

 まるで、今の話題が自分には関係ないとでもいうように、聖子は静かに紅茶を一口すする。


(ふうん……あの子が、廊下で、ね)


 その内心を表に出すことはなかったが、聖子の指先は微かに止まっていた。

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