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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第3章 天翔専門学校2年生
114/140

114:気になる生徒

 窓の外では、部活動や自主練習に向かう生徒たちの姿がちらほらと見える。

 講師室には、今日の授業を終えた教員たちがゆるやかに集い、各々の事務作業や資料整理に向かっていた。

 声楽担当の霧島要が、隣のデスクでファイルを閉じながら、ソルフェージュ担当の海堂千歳に声をかける。


 「海堂先生、学校にはもう慣れましたか?」


 淡い笑みを浮かべた霧島の問いに、海堂は視線を外の景色へと向けたまま、わずかに頷いた。


 「ええ、まあ……」


 それは愛想のために絞り出した短い言葉だったが、霧島は気を悪くした様子はない。


 「理事長はあなたに大いに期待してるみたいですね。もちろん、我々もあなたに期待していますよ」


 そう言いながら、霧島は机上のマグカップを手に取り、ほんのり冷めた紅茶に口をつける。

 海堂は、目を伏せたまま短く言った。


 「ありがとうございます。ご期待に沿えるように、努めます」


 そのやりとりに割って入るように、バレエ担当の神原真理子が手元の資料を閉じながら口を開く。


 「ところで、気になる生徒はいましたか?」


 静かな沈黙が、しばし流れる。海堂は一瞬だけ考える素振りを見せたあと、明確に答える。


 「ええ」


 神原の目がやや鋭さを帯びる。


 「どの生徒ですか?」


 視線を霧島と神原へ戻しながら、海堂は静かに名を口にした。


 「紫堂エリカですね」


 霧島と神原は、同時に小さく頷いた。予想していた答えだったのだろう。


 「やっぱり。彼女は入学試験のときから、ずっと主席なんですよ」と神原が言う。


 海堂は感嘆というよりも、観察者としての視点で淡々と返す。


 「そうなんですね。確かに、完成度が高い」

 

 だが、その後に続けた言葉には、微かな熱が込められていた。


 「……あ、あと、鷹宮あかりも気になりますね」


 意外な名前に、霧島の眉が僅かに上がる。


 「なるほど、鷹宮あかり。いや、彼女、いい声色をしてますよね。歌はまだ粗削りだけど、磨けばもっと光りそうだと思ってます」


 海堂は霧島の言葉を受け止めつつ、ふと瞳に陰を宿す。


 「ええ……でも、それだけじゃないですよ、彼女は」


 重みのあるその一言に、場の空気が僅かに変わった。

 霧島が「それだけじゃない?」と問い返す前に、海堂は話題を閉じるようにそっと微笑んだ。


 「今は、まだ、ただの感覚ですけどね」


 その瞬間。講師室の片隅、窓際のデスクで書類を綴じていた如月玲奈の手が、一瞬止まる。

 海堂の言葉に反応したのか、あるいは鷹宮あかりの名に何かを思ったのか。しかし彼女は何も言わない。ただ、無言のまま、閉じたファイルの上に手を置いた。

 その横顔に宿る静かな思索の影を、誰も気づかない。

 やがて、夕日がさらに赤く染まり、講師室の窓を照らしていた。



***


 夕暮れの静けさが窓の向こうに広がる中、寮の食堂には今日も賑やかな声が響いていた。木製の長テーブルには湯気を立てる酢豚の夕食が並び、彩り豊かな野菜と肉の香ばしい香りが空腹を誘っている。

 あかりは、自分の席にトレイを置くと、先に席についていた颯真、ひまり、ゆら、さらと顔を見合わせた。


 「今日の酢豚、すごくおいしそう!」


 あかりは目を輝かせながら箸を持ち上げる。


 「やっと海堂先生の授業が終わった~。今日の音程テスト、マジで心臓止まるかと思ったんだけど」


 そう言って、ひまりは一口酢豚を頬張りながら眉をひそめた。


 「間違えたら退場って言ったとき、怖かった~。でも、ほんとに誰か退場させたらどうしようって思ったよね」


 さらが同意するように肩をすくめる。


 「うん……」


 あかりは箸を持ったまま、少し俯いた。


 「私、間違えないことに必死すぎて、自分が何を言ったのかすら覚えてないよ。気づいたら終わってたって感じ」


 「でも、あかり、ちゃんとできていたよ」


 ゆらが優しく微笑んだ。


 「ちゃんと調が取れてたし、拍の感じも安定してた。たぶん、先生も少しうなずいてたよ」


 「ほんと? ……なら、よかった」


 安堵と少しの誇らしさがあかりの表情に浮かぶ。


 「まあ、あの空気は独特だよね」

 

 颯真が落ち着いた声で言った。


 「海堂先生の授業って、ただの音楽の授業じゃなくて、舞台に立つ人間としての覚悟も問われてる気がする」


 「うん、わかるかも」


 さらがうなずいた。


 「視唱も聴音も、ただ音を取ればいいっていうだけじゃなくて、自分の感覚を鍛え直されるって感じだったし」


 ひまりが、ご飯を頬張りながらぽつりと言った。


 「でも、あたし……次も間違えたらどうしようって、もう今からお腹痛いよ……」


 「大丈夫、ひまりならできるよ。音感いいんだもん」


 あかりが優しく励ますと、ひまりは少し照れくさそうに笑った。


 そのとき、ふとゆらが呟いた。


 「でも……本当に、あの先生の授業を受けられるなんて、私たち、幸せだわ」


 一瞬、皆の箸が止まった。あかりはゆらの言葉を噛みしめるように見つめる。


 「たしかに……」


 颯真がうなずいた。


 「海堂先生って、有名な歌唱指導者だったんでしょう? その人がわざわざ私たちのために講師になってくれて……」


 「理事長が直接お願いしたみたいだし」


 ひまりがこっそり声を潜めて言った。


 「でも、なんで私たちの代に?」


 さらが首を傾げる。

 あかりはその問いに、心のどこかで思っていたことを言葉にした。


 「きっと……私たちの誰かに、可能性を感じてくれたんじゃないかな」


 その一言に、誰もが黙った。

 酢豚の甘酸っぱい香りと、夜の帳が静かに食堂を包み込んでいく。


 「よし、次はもっとがんばろう」


 そう言って、あかりは箸を持ち直した。その瞳の奥には、小さな決意の光が灯っていた。

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