114:気になる生徒
窓の外では、部活動や自主練習に向かう生徒たちの姿がちらほらと見える。
講師室には、今日の授業を終えた教員たちがゆるやかに集い、各々の事務作業や資料整理に向かっていた。
声楽担当の霧島要が、隣のデスクでファイルを閉じながら、ソルフェージュ担当の海堂千歳に声をかける。
「海堂先生、学校にはもう慣れましたか?」
淡い笑みを浮かべた霧島の問いに、海堂は視線を外の景色へと向けたまま、わずかに頷いた。
「ええ、まあ……」
それは愛想のために絞り出した短い言葉だったが、霧島は気を悪くした様子はない。
「理事長はあなたに大いに期待してるみたいですね。もちろん、我々もあなたに期待していますよ」
そう言いながら、霧島は机上のマグカップを手に取り、ほんのり冷めた紅茶に口をつける。
海堂は、目を伏せたまま短く言った。
「ありがとうございます。ご期待に沿えるように、努めます」
そのやりとりに割って入るように、バレエ担当の神原真理子が手元の資料を閉じながら口を開く。
「ところで、気になる生徒はいましたか?」
静かな沈黙が、しばし流れる。海堂は一瞬だけ考える素振りを見せたあと、明確に答える。
「ええ」
神原の目がやや鋭さを帯びる。
「どの生徒ですか?」
視線を霧島と神原へ戻しながら、海堂は静かに名を口にした。
「紫堂エリカですね」
霧島と神原は、同時に小さく頷いた。予想していた答えだったのだろう。
「やっぱり。彼女は入学試験のときから、ずっと主席なんですよ」と神原が言う。
海堂は感嘆というよりも、観察者としての視点で淡々と返す。
「そうなんですね。確かに、完成度が高い」
だが、その後に続けた言葉には、微かな熱が込められていた。
「……あ、あと、鷹宮あかりも気になりますね」
意外な名前に、霧島の眉が僅かに上がる。
「なるほど、鷹宮あかり。いや、彼女、いい声色をしてますよね。歌はまだ粗削りだけど、磨けばもっと光りそうだと思ってます」
海堂は霧島の言葉を受け止めつつ、ふと瞳に陰を宿す。
「ええ……でも、それだけじゃないですよ、彼女は」
重みのあるその一言に、場の空気が僅かに変わった。
霧島が「それだけじゃない?」と問い返す前に、海堂は話題を閉じるようにそっと微笑んだ。
「今は、まだ、ただの感覚ですけどね」
その瞬間。講師室の片隅、窓際のデスクで書類を綴じていた如月玲奈の手が、一瞬止まる。
海堂の言葉に反応したのか、あるいは鷹宮あかりの名に何かを思ったのか。しかし彼女は何も言わない。ただ、無言のまま、閉じたファイルの上に手を置いた。
その横顔に宿る静かな思索の影を、誰も気づかない。
やがて、夕日がさらに赤く染まり、講師室の窓を照らしていた。
***
夕暮れの静けさが窓の向こうに広がる中、寮の食堂には今日も賑やかな声が響いていた。木製の長テーブルには湯気を立てる酢豚の夕食が並び、彩り豊かな野菜と肉の香ばしい香りが空腹を誘っている。
あかりは、自分の席にトレイを置くと、先に席についていた颯真、ひまり、ゆら、さらと顔を見合わせた。
「今日の酢豚、すごくおいしそう!」
あかりは目を輝かせながら箸を持ち上げる。
「やっと海堂先生の授業が終わった~。今日の音程テスト、マジで心臓止まるかと思ったんだけど」
そう言って、ひまりは一口酢豚を頬張りながら眉をひそめた。
「間違えたら退場って言ったとき、怖かった~。でも、ほんとに誰か退場させたらどうしようって思ったよね」
さらが同意するように肩をすくめる。
「うん……」
あかりは箸を持ったまま、少し俯いた。
「私、間違えないことに必死すぎて、自分が何を言ったのかすら覚えてないよ。気づいたら終わってたって感じ」
「でも、あかり、ちゃんとできていたよ」
ゆらが優しく微笑んだ。
「ちゃんと調が取れてたし、拍の感じも安定してた。たぶん、先生も少しうなずいてたよ」
「ほんと? ……なら、よかった」
安堵と少しの誇らしさがあかりの表情に浮かぶ。
「まあ、あの空気は独特だよね」
颯真が落ち着いた声で言った。
「海堂先生の授業って、ただの音楽の授業じゃなくて、舞台に立つ人間としての覚悟も問われてる気がする」
「うん、わかるかも」
さらがうなずいた。
「視唱も聴音も、ただ音を取ればいいっていうだけじゃなくて、自分の感覚を鍛え直されるって感じだったし」
ひまりが、ご飯を頬張りながらぽつりと言った。
「でも、あたし……次も間違えたらどうしようって、もう今からお腹痛いよ……」
「大丈夫、ひまりならできるよ。音感いいんだもん」
あかりが優しく励ますと、ひまりは少し照れくさそうに笑った。
そのとき、ふとゆらが呟いた。
「でも……本当に、あの先生の授業を受けられるなんて、私たち、幸せだわ」
一瞬、皆の箸が止まった。あかりはゆらの言葉を噛みしめるように見つめる。
「たしかに……」
颯真がうなずいた。
「海堂先生って、有名な歌唱指導者だったんでしょう? その人がわざわざ私たちのために講師になってくれて……」
「理事長が直接お願いしたみたいだし」
ひまりがこっそり声を潜めて言った。
「でも、なんで私たちの代に?」
さらが首を傾げる。
あかりはその問いに、心のどこかで思っていたことを言葉にした。
「きっと……私たちの誰かに、可能性を感じてくれたんじゃないかな」
その一言に、誰もが黙った。
酢豚の甘酸っぱい香りと、夜の帳が静かに食堂を包み込んでいく。
「よし、次はもっとがんばろう」
そう言って、あかりは箸を持ち直した。その瞳の奥には、小さな決意の光が灯っていた。