112:名は体を表す
新学期が始まって間もないある春の日の放課後。
「今の、ちゃんと拍の頭にアクセントが来てた。よし、次!」
あかりの声が音楽室に明るく響いた。
澪と並んで、視唱の練習を重ねること数日。メトロノームに合わせた反復練習は、確かに彼女たちの音感とリズム感を変えていた。
その様子を、ある日ひっそりと見ていた人物がいた。
「……またやってる」
扉の陰からのぞき込む、橘颯真の声。そしてその後ろには一ノ瀬ゆらと、Bクラスの水瀬大河の姿もあった。
「ねえ、颯真。あの二人、すごい集中力だよね。毎日続けてる」
「海堂先生にあそこまで言われたら、そりゃ火がつくでしょ。……あかり、本気で変わろうとしてる」
そのやり取りを聞いていた大河が、ふと何かを思いついたように口を開いた。
「私たち練習に混ぜてもらわない?実は私、聴音が全然ダメでさ……一緒にやれたら、少しは感覚つかめそうな気がする」
「……混ぜてもらう?そうね、それ、面白いかも」
ゆらの目がきらりと輝く。
こうして――翌日。
音楽室には、いつの間にか5人が集まっていた。
「えっ、視唱の練習、一緒に?」
あかりが目を丸くすると、大河が少し気恥ずかしそうに頭をかく。
「悪い、あかり。二人がやってるの見てたら、私も真似してみたくなって。それに次の試験では、みんなのいるAクラスに上がりたいしね」
「聴音は得意なんだけど……視唱がちょっと苦手で。よかったら教えて?」
ゆらがふわっと笑うと、澪がうなずいた。
「もちろん、歓迎。私たちもまだまだ練習中だけど、誰かと一緒の方が身につくこと、たくさんあると思う」
「じゃあ、今日の課題は三拍子の視唱だね。メトロノームはこのテンポでどう?」
小さな音楽室に、和やかな空気が流れ始めた。
それぞれに譜面を手に取り、拍を口にしながら音をなぞる。
「1・2・3、1・2・3……」
繰り返すうちに、ぎこちなかったリズムも少しずつ身体に馴染んでいく。
「あかり、今の、少し速くなったかも」
「え、ほんと? あ、たしかにメトロノームより先に行ってた……」
「私も、最初の音を高くとりすぎてた。ドがド♯になってたかも」
互いにフィードバックを出し合い、指摘し合う。
そこに競争心や見栄はなかった。
ただ、「もっと上手くなりたい」という純粋な情熱だけが、音楽室を満たしていた。
──そして数日後。
その練習の輪は、さらに広がっていった。
「ねえ、あのグループ、毎日視唱やってるんでしょ?」
「少し見せてもらおうよ。私も拍子感がずっと苦手だったし……」
やがて、他の同期や1年生たちにもその光景が留まるようになった。
「あれが、今年の2年生……?」
「あの子たち、成績上位なのにさらに自分たちで練習を回してる」
そんな噂も、いつしか校内を駆け巡るようになる。
ある日の休み時間、如月玲奈が廊下ですれ違った海堂千歳にそっと声をかけた。
「すごいですね。海堂先生の拍子の授業から、こんに自主練習の波が広がるなんて」
海堂はほんの少し目を細め、短く答えた。
「音楽っていうのはね、技術じゃなくて伝播する感情なのよ。本気で音に向き合う子のそばには、自然と仲間が集まるの」
「鷹宮あかりもやがて、舞台で中心になる子かもしれないですね」
「それを決めるのは、舞台の光。でも、最初に光を集める拍を打ったのは、確かにあの子だったわ」
校舎の外では、春の風が桜の花びらをふわりと舞わせていた。
あかりたちは今日もまた、音楽室の中で静かに拍子を刻んでいた。
その一音一音が、やがて彼女たちを未来の舞台へと導いていくことを、誰もが少しずつ感じ始めていた。
***
鏡張りのレッスン室。
夜の冷たい光が、磨かれた床に淡く反射する。
紫堂エリカはひとり、淡々とストレッチを繰り返していた。
音も立てず、誰にも見られず、完璧な型でバレエのポーズを取り続ける。
「みんな、あかりの周りに集まってるのね」
つぶやきに似たその言葉は、自分自身へ向けた呟きだった。
数日前から、音楽室に集まる同級生たちの輪に、彼女は一度も加わっていなかった。
別にあかりの成績が自分より低いからと言って、あかりの自主練習をバカにしているわけではない。
春休みのときは空き教室が少なかったため、あかりと澪と一緒に練習していたエリカだったが、"仲良しこよし"ではトップにはなれないと感じ、あかりたちの練習の輪に加わることはなかった。
「人の真似をして、何が身につくの?」
そう思っていた。思い込もうとしていた。
だけど耳に入るのは――
「鷹宮の視唱、最近すごく安定してきたよね」
「綾小路さんと息ぴったりで、見てるだけで緊張感が伝わる」
「前よりも、明るくなった気がする」
あかりという名前ばかりが、空気を震わせていた。
そのたびに、エリカの胸に棘のようなものがひっかかる。
──見てないわけじゃなかった。
見ていた。何度も、扉の影から、窓の隙間から。
楽しげに笑いながら、拍をとり、声を重ねるあかりと澪の姿を。
(あの子……こんなに早く変わるなんて)
文化祭では、あかりは脇役だった。自分の背中を追うだけの存在だったはず。
なのに今――中心には、彼女がいた。人を動かす力を持って。
バッと立ち上がると、鏡の中の自分をにらみつける。
「私は……私のやり方で、頂点に立つ。それだけよ」
でもその夜、エリカは眠れなかった。
孤独な夜の静けさの中で、何度もあかりの笑い声が耳の奥でこだましていた。