110:前日までのお楽しみ
講師棟の三階、午後の陽光が射し込む講師室には、桜の花びらの名残を運ぶ風がわずかに揺れていた。木製の窓枠から見える中庭の新緑が、柔らかくまぶしく、季節が確かに春から初夏へと歩みを進めていることを感じさせていた。
その静かな空気を背景に、講師たちは湯気の立つマグカップを片手に、昼下がりのひとときを楽しんでいた。
「今年の二年生の修学旅行は、京都なんですよね?」
と、バレエ担当の神原真理子が明るい声で話を切り出した。肩まで伸びた茶色の髪を揺らしながら、真理子はコーヒーをひとくち啜る。
「たしか、そうでしたね」
ソファの端に腰掛けていた声楽担当の霧島要が応じた。細縁の眼鏡越しに手元の資料を閉じながら、少し微笑む。
「去年の長崎も風情がありましたけれど……」
日舞担当の藤代瑞月が扇子を軽く開きながら、しっとりとした声で続けた。
「京都もまた、舞の所作を感じるには最適な地ですわね」
神原が「たしかに」と頷くと、近くの椅子に座っていた新任のソルフェージュ講師、海堂千歳が小首をかしげた。
「失礼ですが……私は今年度からの着任なので、その……修学旅行には……?」
その質問に、藤代が優雅に微笑みながら答えた。
「海堂先生はご存じないかもしれませんが、修学旅行は講師も全員同行いたしますの。そして――各班に一名ずつ、講師が引率役として割り当てられるのです」
「え……私も、行くのですか?」
海堂は驚いたように目を見開き、手にしたティーカップをそっと置いた。
「そうですよ。私も最初の年は戸惑いましたけれど、実際に行ってみると、楽しいものですよ」
と神原が朗らかに笑った。
「生徒たちの素顔が見られる貴重な機会ですし、何より彼女たちが、どんなふうに友情を育んでいるかが、よくわかります」
そこに、窓際で書類に目を通していた合唱担当の宝生聖子が、低く落ち着いた声で口を開いた。
「誰がどの班を引率するかが、肝心ですね」
その言葉に、場の空気が一瞬止まった。
柔らかい春の風が、開け放たれた窓からすっと吹き込み、藤代の袂を揺らす。
「ふふ……なんだか意味深ですね」
と藤代が笑うも、その目元にはやや張りつめた気配があった。
聖子の視線はまっすぐ前を見据えている。だが、その言葉に込められた意味は、誰もが察していた。
生徒との距離感、特定の生徒への思い、指導と感情――。講師たちといえど、舞台に生きる者として、胸に火を灯すことをやめるわけにはいかない。
その沈黙を破るように、演技担当の如月玲奈が静かに立ち上がった。玲奈は聖子を一瞥し、穏やかに言った。
「生徒の成長のためにも、公平に。そうでなければなりませんね」
玲奈の目には、柔らかさの中に鋭い光が宿っている。
聖子は玲奈の視線を受け止めながらも、何も言わずにわずかに笑っただけだった。
その場には、春の柔らかい日差しと、それとは裏腹の静かな緊張感が流れていた。
講師たちの間にも、舞台裏のような複雑な関係が息づいていることを、春の風が優しく告げていた。
***
放課後の講師棟は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。西日の差し込む廊下には、かすかに石鹸の香りが残る清潔な空気が漂っている。
あかりは自分の靴音がやけに大きく響くのを気にしながら、講師棟の三階へと足を運んでいた。手には、修学旅行の班ごとの行動計画表。修学旅行中、どこに行くか、どう過ごすかを、班ごとに提出を求められていたものだ。
講師室のプレートが見えたそのときだった。向こうから現れた白い影に、あかりは思わず足を止めた。
「――あら?」
優美で艶やかな声。そこに立っていたのは、宝生聖子だった。月の光でもまとっているかのような薄いグレイのブラウスに黒のスラックス、髪を後ろにまとめたその姿は、まるで物語の中の貴婦人のように整っている。
「講師の誰かにご用事?」
聖子はあかりを見つめながら、ゆっくりと近づいてきた。長いまつげの奥からのぞく瞳が、あかりを柔らかく射抜く。
「あっ……はい、今から修学旅行の計画表を提出しにきたんです」
あかりは軽く頭を下げながら答えたが、その視線は思わず聖子の美しい顔に吸い寄せられてしまった。聖子と対話するたび、どこか心がざわめいてしまう。
「修学旅行ね……あなたたちの班は、どんな旅を計画してるのかしら?」
「えっと……伏見稲荷大社を見学する予定で……」
あかりは手に持った計画表をちらと見ながら説明した。聖子は穏やかな笑みを浮かべたまま、ふんわりと頷いている。
「先生も、引率されるんですか?」
あかりは思い切って尋ねた。答えが気になって仕方がなかった。
「ええ、そうよ」
「えっ、じゃあ……どの班の引率をされるんですか?」
「それは……まだ決まっていないの」
そう言うと、聖子は視線を一度だけあかりの手元に落とし、そのまま踵を返して去ろうとした。
「ま、待ってください!」
思わずあかりは声をあげた。自分でも、なぜあんなに焦っていたのかは分からない。ただ、次の言葉を止めることができなかった。
「わ、私の班……引率してもらえませんか?」
言った瞬間、顔がかっと熱くなった。あかりは目を伏せ、手元の計画表をぎゅっと握りしめた。
一瞬の沈黙。聖子は動きを止めて、ゆっくりと振り返る。
「ふふ……どうして?」
あかりは言葉を詰まらせた。どうして?と聞かれても、理由はたくさんある気がして、でもどれも口にできなかった。
「あの……一緒に回れたら、嬉しいから……です」
やっと絞り出すように言ったその言葉に、聖子は小さく目を見開いたあと、ゆっくりと妖艶に微笑んだ。
「それは……光栄ね」
「ほんとですか?」
「どうなるかは――前日までのお楽しみよ」
聖子はそう囁くように言うと、くるりと背を向け、ヒールの音を響かせて廊下の奥へと歩き去っていった。
残されたあかりは、胸の鼓動が止まらないのを感じながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。