106:春、再始動の朝
寮の朝は、少し早い。
ことさらこの日は、目覚まし時計よりも先に目を覚ました生徒たちの気配が、廊下にふんわりと漂っていた。
春休みの間は空き部屋も多かった寮だったが、昨夜すべての部屋に灯りが戻り、今日はどこもかしこも微かに張り詰めたような空気を纏っている。
202号室でも、薄桃色のカーテンの隙間から朝陽が差し込み、あかりの睫毛の先に光が揺れていた。
「あかり、起きてる?」
すぐそばから聞こえた声に、あかりはそっと目を開ける。
「……うん。おはよう、澪」
声はまだ眠たげだったが、胸の奥にはしっかりとした緊張感があった。
窓の外では、桜の木が朝の風に小さく揺れている。季節はまだ春の中腹にありながら、花びらの輪郭にどこか別れと始まりの気配がにじんでいた。
「今日から、2年生なんだね」
あかりがぽつりと呟くと、澪はベッドからゆっくりと起き上がった。シルクのように滑らかな髪がさらりと肩に落ちる。
「そう。私たちの最後の一年が始まる」
それは決して、感傷的な言葉ではなかった。
けれど、澪の口から放たれたその静かな響きが、あかりの胸にしんと染みた。
この1年の先には、初舞台がある。観客の前で天翔歌劇団の名を背負い、初めて舞台人として立つ未来が、もうそこに迫っている。
食堂では、早起きした生徒たちが制服の襟を正しながら、手早く朝食を取っていた。あかりと澪もいつもの席につく。
春休み中とは違い、食堂には笑い声や食器の音が溢れ、賑やかさが戻っていた。
「今日は、どんな授業から始まるのかな」
あかりが卵サンドを頬張りながら言うと、澪は紅茶に口をつけ、やや考えるように目を伏せる。
「時期的に、オリエンテーションと実技の再確認じゃないかな。あと……」
澪はそこで一瞬言葉を止めて、周囲に耳を澄ませたあと、あかりの方に目を向ける。
「新しい講師が来てるって、聞いた?」
「うん。入学式でひまりが教えてくれた。ソルフェージュの先生だって」
「そう。どんな先生か楽しみね」
澪の声音には少しだけ、探るような色があった。
食後、支度を整えたあかりと澪は、寮の玄関をくぐり、並んで校舎へと向かった。
春の朝は、まだ少し肌寒い。けれど、陽の光には力強さがあり、制服のスカートの裾を優しく揺らす風は、どこか新しい道を指し示すようでもあった。
登校の坂道には、同級生たちの姿が点々とあった。
あかりは小さく息を吸い込む。春の香りに満ちた空気が、肺いっぱいに満ちた。
「ねえ、澪」
「なに?」
「今年一年、絶対に、悔いのないように頑張る。私はこの場所で、トップを目指したいって、ちゃんと夢を言葉にする」
澪は歩きながら、あかりの顔を一度、まっすぐ見つめた。
「うん。……私も、この1年で、自分の場所を見つけたいと思ってる」
朝の光が2人の足元を照らし、細く長く、校舎まで続いていく。
それは、舞台という名の未来に続く、始まりの光の道だった。
***
春の光が差し込む演技教室の窓辺には、カーテンがふわりと揺れていた。
教室の空気は静かに張り詰めていた。新たな学年に進級し、制服の肩に感じる重さが、どこか以前よりも確かなものになったようだった。
あかりは、澪、エリカと並んで席につき、背筋を正して息を整える。
この教室、この空気、この椅子の硬さ――すべてが1年前と同じなのに、どこかが確実に違っている。自分の中の何かが。
数秒後、足音ひとつ響かせずに、如月玲奈が静かに入室した。
スカートの裾が揺れるたびに、空気がひときわ研ぎ澄まされる。
彼女の存在が、その場の緊張感を無言のまま高めてゆく。
「おはようございます」
玲奈の声は、朝の教室の空気を裂くように透き通っていた。
どこか冷たさをはらんだ声色に、生徒たちの背筋がピンと伸びる。
「あなたたちは、今日から2年生。つまり、この専門学校での最後の1年を迎えました」
玲奈は教室の中央で立ち止まり、まっすぐに生徒たちを見渡す。
その視線は、誰かひとりを見るのではない。ひとりひとりの心の奥を、すべて見透かすような眼差しだった。
「今年が勝負だということは、皆、理解しているわね」
彼女の言葉に、生徒たちは静かにうなずいた。
その中に、決意と不安とが複雑に混じる気配があった。
「舞台に立つとは、自分の存在すべてを見せること。どれほど技術を積んでも、心が舞台に届いていなければ、客席は凍りつく」
玲奈の言葉は、淡々とした口調でありながら、ひとつひとつが刺すような鋭さを持っていた。
あかりは唇をきゅっと結びながら、拳を膝の上で強く握った。
舞台。自分が憧れて、夢見て、全身で追いかけている場所――その厳しさを、彼女の言葉が静かに物語っていた。
「そして――」
玲奈は、視線を一瞬だけ切って窓の外に目をやり、またすぐに教室へと戻した。
「中間試験の成績で、AクラスとBクラスの入れ替えがあります」
教室の空気が、ひそやかにざわついた。
一部の生徒は肩を強張らせ、他の生徒は顔色を変える。
「今いるクラスが、ずっとあなたの場所だと思わないこと。競争のない場所に成長はない。舞台の上に絶対は存在しないわ」
その言葉は、ただの制度の説明ではなかった。
如月玲奈自身の、舞台への哲学だった。
エリカは真っ直ぐ前を見たまま、何も言わずに頷いた。
澪はほんの一瞬だけ、目を伏せてから視線を前へ戻す。
そして、あかりは震える指先をそっと重ねて、心の奥でひとつ、小さく誓った。
(負けたくない。……私は、ここで光になりたい)
玲奈は全員の表情を静かに見渡しながら、続けた。
「今からあなたたちには、今年をどう過ごすかを自分自身に問いなさい。言葉にしなくてもいい。ただ、決めなさい。この1年、どう生きるのかを」
その沈黙は、言葉よりも深かった。
そして、玲奈は微笑みすら見せずに言った。
静かなざわめきが、胸の奥で再び熱へと変わっていく。
あかりたち2年生の、本当の1年が、今、幕を開けた。