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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第3章 天翔専門学校2年生
106/140

106:春、再始動の朝

 寮の朝は、少し早い。

 ことさらこの日は、目覚まし時計よりも先に目を覚ました生徒たちの気配が、廊下にふんわりと漂っていた。

 春休みの間は空き部屋も多かった寮だったが、昨夜すべての部屋に灯りが戻り、今日はどこもかしこも微かに張り詰めたような空気を纏っている。

 202号室でも、薄桃色のカーテンの隙間から朝陽が差し込み、あかりの睫毛の先に光が揺れていた。


 「あかり、起きてる?」


 すぐそばから聞こえた声に、あかりはそっと目を開ける。


 「……うん。おはよう、澪」


 声はまだ眠たげだったが、胸の奥にはしっかりとした緊張感があった。

 窓の外では、桜の木が朝の風に小さく揺れている。季節はまだ春の中腹にありながら、花びらの輪郭にどこか別れと始まりの気配がにじんでいた。


 「今日から、2年生なんだね」


 あかりがぽつりと呟くと、澪はベッドからゆっくりと起き上がった。シルクのように滑らかな髪がさらりと肩に落ちる。


 「そう。私たちの最後の一年が始まる」


 それは決して、感傷的な言葉ではなかった。

 けれど、澪の口から放たれたその静かな響きが、あかりの胸にしんと染みた。

 この1年の先には、初舞台がある。観客の前で天翔歌劇団の名を背負い、初めて舞台人として立つ未来が、もうそこに迫っている。


 食堂では、早起きした生徒たちが制服の襟を正しながら、手早く朝食を取っていた。あかりと澪もいつもの席につく。

 春休み中とは違い、食堂には笑い声や食器の音が溢れ、賑やかさが戻っていた。


 「今日は、どんな授業から始まるのかな」


 あかりが卵サンドを頬張りながら言うと、澪は紅茶に口をつけ、やや考えるように目を伏せる。


 「時期的に、オリエンテーションと実技の再確認じゃないかな。あと……」


 澪はそこで一瞬言葉を止めて、周囲に耳を澄ませたあと、あかりの方に目を向ける。


 「新しい講師が来てるって、聞いた?」


 「うん。入学式でひまりが教えてくれた。ソルフェージュの先生だって」


 「そう。どんな先生か楽しみね」


 澪の声音には少しだけ、探るような色があった。


 食後、支度を整えたあかりと澪は、寮の玄関をくぐり、並んで校舎へと向かった。

 春の朝は、まだ少し肌寒い。けれど、陽の光には力強さがあり、制服のスカートの裾を優しく揺らす風は、どこか新しい道を指し示すようでもあった。


 登校の坂道には、同級生たちの姿が点々とあった。

 あかりは小さく息を吸い込む。春の香りに満ちた空気が、肺いっぱいに満ちた。


 「ねえ、澪」


 「なに?」


 「今年一年、絶対に、悔いのないように頑張る。私はこの場所で、トップを目指したいって、ちゃんと夢を言葉にする」


 澪は歩きながら、あかりの顔を一度、まっすぐ見つめた。


 「うん。……私も、この1年で、自分の場所を見つけたいと思ってる」


 朝の光が2人の足元を照らし、細く長く、校舎まで続いていく。

 それは、舞台という名の未来に続く、始まりの光の道だった。



***


 春の光が差し込む演技教室の窓辺には、カーテンがふわりと揺れていた。

 教室の空気は静かに張り詰めていた。新たな学年に進級し、制服の肩に感じる重さが、どこか以前よりも確かなものになったようだった。


 あかりは、澪、エリカと並んで席につき、背筋を正して息を整える。

 この教室、この空気、この椅子の硬さ――すべてが1年前と同じなのに、どこかが確実に違っている。自分の中の何かが。


 数秒後、足音ひとつ響かせずに、如月玲奈が静かに入室した。

 スカートの裾が揺れるたびに、空気がひときわ研ぎ澄まされる。

 彼女の存在が、その場の緊張感を無言のまま高めてゆく。


 「おはようございます」


 玲奈の声は、朝の教室の空気を裂くように透き通っていた。

 どこか冷たさをはらんだ声色に、生徒たちの背筋がピンと伸びる。


 「あなたたちは、今日から2年生。つまり、この専門学校での最後の1年を迎えました」


 玲奈は教室の中央で立ち止まり、まっすぐに生徒たちを見渡す。

 その視線は、誰かひとりを見るのではない。ひとりひとりの心の奥を、すべて見透かすような眼差しだった。


 「今年が勝負だということは、皆、理解しているわね」


 彼女の言葉に、生徒たちは静かにうなずいた。

 その中に、決意と不安とが複雑に混じる気配があった。


 「舞台に立つとは、自分の存在すべてを見せること。どれほど技術を積んでも、心が舞台に届いていなければ、客席は凍りつく」


 玲奈の言葉は、淡々とした口調でありながら、ひとつひとつが刺すような鋭さを持っていた。

 あかりは唇をきゅっと結びながら、拳を膝の上で強く握った。

 舞台。自分が憧れて、夢見て、全身で追いかけている場所――その厳しさを、彼女の言葉が静かに物語っていた。


 「そして――」


 玲奈は、視線を一瞬だけ切って窓の外に目をやり、またすぐに教室へと戻した。


 「中間試験の成績で、AクラスとBクラスの入れ替えがあります」


 教室の空気が、ひそやかにざわついた。

 一部の生徒は肩を強張らせ、他の生徒は顔色を変える。


 「今いるクラスが、ずっとあなたの場所だと思わないこと。競争のない場所に成長はない。舞台の上に絶対は存在しないわ」


 その言葉は、ただの制度の説明ではなかった。

 如月玲奈自身の、舞台への哲学だった。


 エリカは真っ直ぐ前を見たまま、何も言わずに頷いた。

 澪はほんの一瞬だけ、目を伏せてから視線を前へ戻す。

 そして、あかりは震える指先をそっと重ねて、心の奥でひとつ、小さく誓った。


 (負けたくない。……私は、ここで光になりたい)


 玲奈は全員の表情を静かに見渡しながら、続けた。


 「今からあなたたちには、今年をどう過ごすかを自分自身に問いなさい。言葉にしなくてもいい。ただ、決めなさい。この1年、どう生きるのかを」


 その沈黙は、言葉よりも深かった。

 そして、玲奈は微笑みすら見せずに言った。

 静かなざわめきが、胸の奥で再び熱へと変わっていく。

 あかりたち2年生の、本当の1年が、今、幕を開けた。

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