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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第3章 天翔専門学校2年生
105/140

105:肝いり講師

 四月の朝、天翔音楽舞台学院の講堂は、まるで春の陽光そのものが降り注いでいるかのようだった。

 舞台の上には桜の枝が大きくあしらわれ、客席には白と紺の制服に身を包んだ新入生たちが緊張と希望を胸に整列していた。

 あかりたち2年生は、在校生代表として後方の席に控えていた。新しい制服の生地は少しだけ張りがあり、春の空気に馴染んで柔らかく揺れている。


 「懐かしいね、去年のこと……」


 あかりはひそかに呟いた。ステージ上の花、入学生の表情、そして講師席に並ぶ教師たち。どれもが1年前の記憶を呼び起こす。


 ふと、あかりの視線がある一点で止まった。

 講師席の中に、見慣れない女性が一人、静かに座っていた。淡いグレーのスーツに、控えめなアクセサリー。だがその凛とした佇まいと、どこか音楽を思わせる静謐な気配が、あかりの心を掴んだ。


 「あの女性……前からいた?」


 隣の席に座るひまりに、あかりは声をひそめて尋ねた。

 ひまりはちらりと講師席を見て、小さく頷いた。


 「ああ、あの人?今年から入った先生みたいよ。ソルフェージュの担当らしいわ」


 「ソルフェージュ……?」


 「音の聴き取りとか、楽譜の初見とか……音楽の基礎ね。声楽の土台を作る授業よ。結構大事だけど、地味だから今まで先生が兼任してたの。でも――」


 ひまりは声をひそめ、口元を隠すようにしながら続けた。


 「最近、天翔の歌唱力が落ちてるって言われてるらしくて。理事長が、外部から呼んだプロの音楽らしいよ」


 「理事長が……直々に?」


 「ええ。肝いりってやつよ。かなりの実力者って噂。音楽大学で教えてたらしいし、演奏活動もしてたんですって。舞台経験はないけど、音楽のことなら相当な知識があるって」


 あかりは再び講師席に目を戻した。

 その女性は、講堂全体を見渡すでもなく、じっと前を見据えていた。微動だにせず、けれど何かを見透かしているような視線。講堂の空気を確かに測るように、静かに佇んでいた。


 「なんだろう……なんか、耳で世界を見てるみたいな人だね」


 あかりが呟くと、ひまりは笑って肩をすくめた。


 「そうかもね。でも――」


 ひまりの瞳がわずかに真剣さを帯びた。


 「たぶん私たち2年生も、あの先生の指導を受けることになるわ。甘く見ないほうがいいかも」


 「……うん」


 あかりは軽く息を呑み、背筋を正した。

 春の空気はやわらかく、だがその風の中には確かに新しい流れが混じっていた。

 音の教師がやってきた。

 それは、新たな時代の予感でもあり、舞台人としての礎を築く――新しい挑戦の始まりでもあった。



***


 入学式の余韻がまだ校内に漂う午後。

 華やかな拍手と祝辞が静まった後、講師たちはぞろぞろと講師棟へ戻っていた。

 講師室に入ると、式場の華やぎとはうって変わり、空気がひんやりと落ち着いていた。深緑色のカーテンから漏れる春の光が、磨かれた床に斜めの影を描いている。


 如月玲奈、霧島要、神原真理子、そして他の講師たちがそれぞれの椅子に腰を下ろす中、理事長・御影洋子は、足音も高らかに部屋の中央に立った。


 その傍らには、長身で黒髪をすっと結いあげた女性――新任講師の海堂千歳(かいどうちとせ)が、姿勢を崩さず立っていた。

 艶のない黒のスーツに身を包んだその佇まいには、どこか舞台人とは異なる気配があった。

 強い眼差しと、凛とした立ち姿。その沈黙には「言葉を選んでいる」気配すらある。

 理事長が口を開いた。


 「皆さん、今日から新しく着任される講師をご紹介します。ソルフェージュ担当の――海堂千歳先生です」


 簡潔な紹介に、講師たちの間にざわりと空気が走った。

 如月玲奈は柔らかな笑みを浮かべ、バレエ担当の講師・神原真理子は無言で頷く。

 だが、その後に続いた理事長の言葉が、室内の温度をわずかに変えた。


 「……近年、天翔歌劇団では歌唱力の面で厳しい意見が増えてきています。舞台は総合芸術です。しかし歌の力は、台詞と同じくらい観客の心を震わせるもの。にもかかわらず、歌を芝居の添え物のように扱う生徒も少なくない。それは、私たち教育の側にも責任があると、私は考えています」


 理事長の眼差しが、ゆっくりと講師たちを見渡した。

 その視線は、やがてひときわ長く――声楽担当の霧島要のもとにとどまった。

 霧島は無言だった。

 整えられた口元の端が、かすかに引き結ばれる。

 理事長は続けた。


 「海堂先生は、クラシックの世界で長く指導にあたられてきた方です。譜面を正確に読み、音を丁寧に積み上げ、そこに感情を織り込む。ソルフェージュ――音楽の言語を、生徒たちにきちんと習得させていただきたい」


 沈黙が落ちた。

 霧島はゆっくりと手を組み、目を伏せたまま何も言わなかった。

 玲奈が静かに視線を送る。

 神原は机上のペンを転がしながら、「ふうん」と無言の興味を示した。

 海堂千歳は、沈黙を破るように、深く一礼した。


 「海堂です。私は歌を響きとしてではなく、意味として教えるつもりです。生徒たちが言葉の旋律を持ち、舞台でそれを武器にできるよう、尽力いたします」


 その低く、澄んだ声が講師室の空気に波紋のように広がっていった。

 霧島要はその言葉に何も返さなかった。

 だが、わずかに眉間が動いた。

 彼にとって「声楽」は技術だけではなく、感情の息づかいそのものだった。そこに言語としてのソルフェージュが介入することに、明らかな違和感を覚えていた。


(舞台に立つ者が、譜面通りに歌うことだけで、客の心を掴めると思っているのか?)


 だが、その思いを口にすることは、しなかった。

 室内には再び静けさが戻る。

 海堂の着任は、理事長の意向。誰も反論はできない。

 霧島要は無言で席を立ち、窓際に背を向けた。

 春の光が、ゆるやかに床に伸びている。

 その中に、確かな波がひとつ、静かに立ち上っていた。

 天翔の歌に、新たな風が吹こうとしていた。



***


 入学式の式典を終え、ソルフェージュの新任講師・海堂千歳の紹介が一通り終わり、室内は安堵と緊張が混ざった空気に包まれていた。

 そのときだった。


 「宝生先生、ちょっとよろしいかしら」


 御影洋子理事長が、柔らかな声でそう告げると、室内の視線が一斉にふたりに向いた。宝生聖子はその声に、ほんの一瞬、微かにまぶたを伏せてから、静かにうなずいた。

 ふたりは講師室の奥、応接室へと移動する。

 高級感のある小さな部屋。淡いグレーのソファと、木製のテーブルが中央に置かれている。

 洋子はソファの片隅に腰を下ろし、聖子にも隣に座るよう促す。


 「ここに座って」


 「……なにか、ご用でしょうか?」


 聖子の声は淡々としていたが、その瞳の奥には読めない光が揺れていた。

 洋子は一瞬、何かを言いかけて、やめた。

 指先がわずかに動く。テーブルに置かれた自分の手に、もう片方の手がそっと重なる。やがてその手が、迷うように空中に伸び――聖子の手の甲のすぐ上で、止まった。


 「昨夜は急に訪れてごめんねさいね……ところで、最近、どう?無理してない?」


 その言葉は、形式的な労いではなかった。

 一度だけ、心を重ねた相手にしかかけられない、柔らかな問いかけだった。

 聖子は、その手に気づきながらも、視線を動かさなかった。


 「無理はしていません。私は和知の職務を果たします。昔も今も、それは変わりません」


 その言葉に込められた決意は、過去への未練をきっぱりと切り離すものだった。

 洋子はほんの少し、哀しみの色を含んだ微笑みで聖子を見つめ返した。


 「聖子、そんな他人行儀な言葉遣いはよしてよ」


 応接室には一瞬、春の雨が遠くに降るような静けさが満ちる。

 それは、もう戻れない過去にそっと触れる、短く静かな再会の時間だった。


 洋子は、そっと宝生聖子の手を握ったまま、まるで宝物を包むように指先で撫でる。

 その手の温もりは、決して過去には戻れないことを知りながらも、どこかその続きを確かめたいと願うような繊細さを帯びていた。


 「……思い出すわね。あなたが2番手男役だった頃。舞台に立つあなたの姿は、まさに――光だった」


 聖子の長いまつげがわずかに伏せられる。


 「本当に、美しかった。堂々としていて、品があって。お客様があなたの一挙手一投足に息を呑んでいた。トップスターの隣に立っても、一瞬で視線を奪う。向かうところ敵なしだったわね……」


 洋子の目には、その頃の聖子の舞台姿がありありと映っているようだった。

 そしてそれは、観客としての誇りではなく、一人の女性としての憧れと愛しさがにじんだ眼差しだった。

 だが、聖子の表情はどこか浮かない。その唇が、かすかに震える。


 「懐かしいわね、あの頃。あなたやあなたのお父さんにも随分お世話になったわ」


 言葉は肯定していても、声には遠くに沈んだ感情が混ざっていた。


 「でもその光は、ほんの一瞬だった。私が退団したあと、誰も、何も語らなくなった」


 洋子は聖子の手を強く握る。


 「それは違う。あなたは今も、観た人の記憶に残ってるわ。あの千秋楽の夜。あなたの最後のセリフを、私は今でも覚えてる」


 聖子は一瞬、瞳を細めた。その奥に浮かぶのは、複雑な色――名誉、誇り、そして、断ち切った何か。


 「……洋子さん、私は選んだの。あの夜、自分で、降りる道を」


 それ以上は語らなかった。

 だが、その降りた理由がただの疲労や周囲の圧力ではなかったことだけは、その表情が物語っていた。


 洋子は聖子の手を離さなかった。

 ただ、沈黙の中に、祈るようにその指を包み込んでいた。

 まるで、戻れない過去の時間の断片を、手のひらでなぞるように。


 「本当は、あなたのそばで、もう一度だけ見たかったのよ。あなたの舞台を」


 聖子は、少しだけ眉を下げ、静かに微笑んだ。

 その微笑みは、すべてを赦して、すべてを遠ざけるような、寂しさを帯びていた。


 「もう、あの頃には戻れない。だから私は、教えることを選んだの」


 そしてそっと、自分の手を洋子の掌から抜いた。


 「それが、私の美学」


 沈黙がふたりの間を満たす。

 春の光がレースのカーテン越しに揺れ、応接室の空気を白くやわらかに染めていた。

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