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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
103/140

103:宝生聖子と御影家(過去)3

 週末の午後。

 重たく曇った空の下、聖子を乗せた黒塗りの車が、箱根の山道をゆっくりと登っていった。

 御影家の別荘は、由緒ある老舗旅館を改装したという和洋折衷の大邸宅だった。門をくぐると見事な石畳と手入れの行き届いた庭が広がり、春の陽気に誘われるように白梅が花を咲かせていた。


 「……来てしまった」


 車から降りた聖子は、胸の内に渦巻く複雑な感情を押し殺しながら、手にした花束を見つめた。それは春の訪れを告げるような淡いピンクの百合とスイートピーでまとめられていた。マネージャーが用意してくれたものだが、まるで何かの記念日のように華やかすぎて、持っているのが滑稽に思える。

 玄関まで進むと、すぐに黒服のスタッフが現れ、恭しく頭を下げた。


 「お待ちしておりました、宝生様。皆さま、奥のホールにお集まりです」


 案内されながら廊下を抜けると、豪奢な調度品が並ぶ洋間が広がっていた。天井のシャンデリアは細やかなカットガラスがふんだんに使われ、壁には名のある画家の油絵が並んでいる。

 その中心に、洋子の姿があった。


 「……!」


 洋子は一瞬、目を疑ったように聖子を見た。だがすぐに唇をほころばせ、宝石のような微笑みを浮かべて駆け寄ってきた。


 「聖子さん……! 本当に来てくださったの?」


 「ええ。予定が変わって、時間ができたので……。サプライズになればと思って」


 そう言いながら、聖子は花束を差し出した。


 「嬉しすぎて涙が出そう」


 洋子は両手で花束を受け取り、その香りを嗅いでうっとりと目を閉じた。そして、周囲にいた人々へ向き直ると、誇らしげに声をあげた。


 「皆さん、ご紹介します。宝生聖子さん――天翔歌劇団・風組の三番手で、今最も注目されている男役スターです!」


 その言葉に、場の空気が一瞬ざわめいた。

 そこには、テレビや雑誌で見かける有名な芸能人の姿もあった。大物政治家の娘と噂される女優、アイドルグループのセンターを務める若手タレント、そして中央官庁に勤める政界二世の青年たち。彼らは一様に聖子の方へ視線を向け、関心の眼差しを注いでいた。


 「きれいな方ね」


 「本物はやっぱりオーラが違うな」

 

 「竜二さんが気に入るのもわかりますね」


 そんな声が交錯する中で、聖子は作り笑顔を浮かべながら、軽く頭を下げて応じた。


(……舞台とは、まるで違う世界)


 その心のつぶやきは、決して口には出せなかった。

 洋子は聖子の腕にそっと手を添え、囁くように言った。


 「今日はあなたを、わたしの“特別な友人”として、みんなに知ってもらいたかったの」


 聖子は表情を崩さず、うなずいた。


 「光栄です。洋子さん」


 だが、その内心では、あの日上層部から言われた言葉が何度も反芻されていた。


 ――「御影竜二を怒らせるな」――


(……私が来たのは、そうしないため。決して、ここに馴染むためじゃない)


 その思いを抱きながら、聖子は笑顔の仮面を被ったまま、洋子に連れられ、次々に差し出される手と視線に応じていくのだった。



 パーティが進むにつれ、聖子は立ち振る舞いに細心の注意を払いながら、人々との会話を無難にこなしていた。

 けれど、それがどれほど骨の折れることか、本人にしかわからない。

 浮かれたような笑顔と社交辞令の渦のなかで、彼女は自分がまるで「飾り物」として差し出されているような感覚に囚われていた。

 ふいに、洋子がそっと聖子の肘に触れた。


 「聖子さん、少しだけ……こっちに来てくれない?」


 囁くような声には、どこか甘えるような響きが混じっていた。洋子は人目を気にするように周囲を見渡し、誰にも気づかれないよう、聖子を別棟へと誘導する。

 玄関脇の廊下を抜けた先、渡り廊下で繋がれた離れの一室に、洋子は聖子を連れ込んだ。

 そこは、格式ある和室を改装したサロン風の小部屋だった。窓辺には控えめな照明と一対の革張りソファ。奥には書棚とグラス棚があり、厳選された洋酒の瓶が並んでいる。


 「父にはここが“隠れ家”みたいな場所なの。来賓にもあまり開けないのよ」


 洋子はそう言いながら、聖子の正面に座ると、ガラスのボトルから赤ワインを注いだ。


 「……いいのですか? こんなところに」


 「平気よ。父も来賓の挨拶で席を外したし。むしろ、今日こうして二人きりで話す時間が欲しかったの」


 グラスを渡しながら、洋子はやわらかく微笑んだ。


 「あなたって、本当に不思議な人ね。初めて見た時からずっと気になっていたの。舞台の上とは別人みたいに、静かで、どこか触れがたい……でも、それがまた、もっと知りたくなるのよ」


(……それがあなたの“癖”なのかしら)


 聖子は笑みを浮かべたままグラスを受け取り、唇だけで礼を言った。


 「ありがとうございます。……でも、私なんて、ただの劇団生です」


 「そんな謙遜、もう聞き飽きたわ。あなたがただの生徒で済むわけないって、父も気づいてるのよ」


 洋子の声がふと低くなる。その目には、見慣れた観察者の眼差し――いや、狩人のような鋭さがあった。


 「……ねえ、聖子さん。あなた、もし将来、天翔でトップになる気があるなら……。いえ、あなたが頂点に立つ器なら。私はあなたを、本気で応援したいと思ってるの」


 言葉とは裏腹に、そこには純粋な好意だけではない何かが滲んでいた。焦りとも執着ともつかない、妙な熱が洋子の言葉に混じっていた。

 聖子はグラスをテーブルに戻すと、慎重に言葉を選んだ。


 「応援していただけるのは、ありがたいです。ただ……私は、自分の力で舞台に立ちたい。それが歌劇団に入った理由なので」


 洋子は一瞬、口元をひきつらせたが、すぐに笑顔を貼り直した。


 「……やっぱり、そういうところも好きよ。あなただけね、私の言葉に真正面から距離を取る人なんて」


 「……すみません」


 「謝らないで。いいのよ。だけど……もう少しだけ、あなたの素を見せてくれないかしら」


 そう言いながら、洋子はゆっくりと手を伸ばした。細くしなやかな指が、聖子の髪の一筋に触れようとする。

 その瞬間――聖子は、ごく自然な仕草のように、すっと身を引いた。


 「……ワイン、少し冷えてきましたね。お部屋に戻りますか?」


 笑顔のまま立ち上がった聖子の姿には、拒絶の色はなかった。だが明らかに、見えない境界線を引いた冷静さがあった。

 洋子はその様子を見つめながら、微笑を崩さずに立ち上がった。


 「……ふふ、ほんとに意志が強いのね。わかったわ、今日はそれ以上は求めない」


 「ありがとうございます。お心遣い、感謝します」


 「でも聖子さん。――あなたの舞台が“特別”なものである限り、私はきっと、あなたを好きでいると思う」


 その言葉には、恋とも友情とも、また別の名を持つ感情が含まれていた。

 そしてその夜、聖子の胸の奥には、ますます重く沈むような「違和感」が広がっていった。

 それは警戒でも、恐れでもなく、彼女自身の本能が告げる境界の感覚だった。



 洋子と別れ、廊下を戻っていた聖子の背後から、低く落ち着いた声が飛んできた。


 「少し、いいかな?」


 聖子が振り返ると、いつの間にか御影竜二が廊下の端に立っていた。さっきまで政財界の重鎮たちに囲まれていた彼が、なぜ自分のもとへ?その意図を測りかねて、聖子はわずかに身構えた。


 「はい、御影さん……」


 「気張らなくていい。ここじゃ、他人の目なんて誰も気にしていない」


 竜二は静かに笑うと、先ほど洋子が連れて行ったのとは別の方向、屋敷の裏手へと歩き出した。聖子はしばし迷ったが、やがて無言で彼の後を追った。

 屋敷の裏手には、手入れの行き届いた日本庭園が広がっていた。人工の小川が流れ、石灯籠と白砂の配置が絶妙に調和している。離れの縁側に出ると、竜二は欄干にもたれ、夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。


 「……こうして見ると、うちの庭も悪くないだろう?」


 「ええ。まるで舞台の一幕みたいです」


 「はは。君にそう言ってもらえるなら、造園士も浮かばれる」


 竜二の声は穏やかだったが、その目には一切の冗談がなかった。むしろ、じっと聖子の様子を観察する視線がそこにはあった。


 「……さっき、洋子と何を話していた?」


 唐突に、本題が切り込まれる。


 「……何を、と言われましても」


 聖子は目を伏せ、静かに答えた。


 「天翔の話です。私の今後のことも含めて。特に問題になるような内容ではありませんでした」


 「……そうか」


 竜二はしばし黙り込み、風にそよぐ庭木を眺めた。その横顔は、冷静というより、どこか沈痛なものすら感じさせた。


 「洋子は、気に入った人間には深く関わろうとする。……良くも悪くも、だ」


 その言葉には、父親としての、あるいは何かを知る者としての重さがあった。


 「君にとって、それが負担になるなら――遠慮なく言ってくれて構わない」


 「……お気遣いありがとうございます」


 聖子は一礼しながらも、表情を変えずに返した。


 「ですが私は、いただいたご縁の中で、自分の位置を確かめていくつもりです。誰に気に入られようと、嫌われようと、最終的に舞台で答えるしかないと……そう思っております」


 竜二はその言葉に、深く頷いた。


 「そうか。……君のそういうところが、私は好きだ」


 一瞬、聖子の目が揺れた。


 「君は、すでに何かを持っている。技術や経験じゃない、本質的な舞台性だ。それは、私がかつて見たある存在と、重なるものがある」


 竜二の目が遠くを見ていた。


(……誰のことを言っている?)


 と聖子は思ったが、敢えて聞かなかった。


 「君がこの先、どう道を選ぶか……それは君自身の問題だ。ただ、もし君が望むなら――私は力を貸すことができる。……それだけは覚えておいてくれ」


 その声音には、洋子のような露骨な接近ではなく、もっと深く、もっと不可視な何かがにじんでいた。

 言葉にしない支配。あるいは、無言の誘惑。


 「……ありがとうございます。でも、私はまだ、その覚悟が足りないと思っています」


 「君は、自分を低く見すぎる」


 「そうでしょうか。でも、だからこそ、もっと舞台を知りたい。もっと、この世界で生きてみたいんです」


 竜二はそれを聞いて、わずかに唇を綻ばせた。


 「君がそう言うなら、私は何も言うまい。ただ、忘れるなよ。天翔の世界では、光に近づくほど、影も濃くなる」


 「……はい」


 その場に、しばし沈黙が流れた。

 遠くで鈴虫が鳴いていた。涼やかな風が、庭を渡ってゆく。

 やがて竜二は、再び聖子に視線を戻した。


 「……舞台で、君を見せてくれ。それが君にできる最大の答えだ」


 「……はい」


 その夜、聖子の中には、確かに新たな何かが芽生えていた。

 それは信頼か、それとも警戒か。あるいはその両方か。

 彼女はまだ、はっきりとはわからなかった。

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